第54話 賭け
『
私はこころと手をつないで外へ出た。
悟さんの姿はすでになく、こころの指にはめられたリングが、残された唯一の通信手段だった。
周囲には木々が密集していたが、初めて嗅ぐ外気には、潮の香りが混ざっていた。
二、三分歩くと、海が見えてきた。
黒い岩でできた海岸線に、白い波しぶきがはじけている。
少し大きな岩の上に、こころと並んで腰を下ろした。
「絆、ごめんね」
こころが小声で言った。
「何が?」
「こんなことに巻きこんでしまって……」
「ううん、こころに呼んでもらえて、嬉しかったよ。すごく、すっごく」
ふわっと、こころの温かい気持ちが流れこんできたように感じた。
行き先も決まっていない、元の時代に戻れるかどうかすら分からないのに、私は海を見つめながら、不思議と穏やかな気持ちに包まれていた。
こころと過ごした昔の思い出が、ひとつひとつよみがえってきた。
初めて出会った時のこと。波乱に満ちた遠足の記憶。嵐の日の思い出。
それからこの世界に来てから、悟さんと経験したことを思い返した。ひとつひとつ順番に、こころに物語を聞かせるようにして。
こころは目を閉じて、私の中の思い出に身をゆだねているようだった。
ビッグ・マザーのことを思いだした時は、こころも辛そうな顔をしていた。けれど、サルースと悟さんのやりとりを思い浮かべた時には、頬を緩ませた。
私にはこころのような特別な力はなかったけれど、久しぶりに誰かと心が通じ合った気がした。
「絆は、あいかわらずね」
こころは、幸せそうに笑った。
「私が伸ばす手を、みんな怖がって避けようとするの。そして私のほうに反対側の手を伸ばす。乱暴なやり方で。でも、あなただけは私の手を握り返してくれる」
こころの言っていることは、分かるようでもあり、分からないようでもあった。けれど、確かなのは、こころも私もこうして隣にいて、それを幸せに感じているということだった。
私はそっとこころの手を握り返し、それから、長い旅の末に、ようやく手を取り合った二人のことを考えた。
二人の別れが、少なくとも心の交流の上での別れが近づいていることを、私は哀しい気持ちで思いだした。
もし私だったら、と、思う。
きっと心を失う瞬間を、人に見られたくはないだろう。
目の前にいる人たちが、遠ざかっていく。それまで感じていた親愛の情も一体感も失ってしまう。
それはきっと恐ろしく、哀しいことに違いない。
けれど、そんな風に思うのは、やはり失礼なことにも思えた。
感情を失ったとしても、悟さんは悟さんだ。
これからも、こころを守ってくれるだろう。今までよりも、こころの気持ちを理解できるようになるだろう。
そして時には、私のことも思いだしてくれるはずだ。
「そうね、きっと……」
こころは息をついた。
「もし兄さんが、忘れずにいてくれるなら……きっと……」
目を閉じる。
長いまつげの間から、つぅっと一筋、涙がこぼれた。
私はじっと、こころの美しい横顔を見つめていた。
やがて、こころはそっと目を開いた。
「決めたわ」
小さな、ささやくような声だったけれど、その声にはしっかりとした意志が感じられた。
「大きな賭けだけれど。私も覚悟を決める」
私たちは、岩場を歩き、ジャングルを抜けてポッドに戻った。
悟さんは、一足先にポッドの中に戻っていた。
こころは中に入ると、深呼吸してから告げた。
「兄さんお願い。VOICEの基地に向けて、ポッドを進めて」
私は誇りと、哀しみを持って、こころの宣言を聞いた。
こころに基地のみんなが見捨てられるはずがない。けれど、明日には政府の襲撃があるはずだ。内輪もめの危険を抱えたままで、みんなが逃げ延びられるのだろうか。
「私は今まで、みんなの声を聞く一方だった。私の声は波の音にかき消されて、どこにも届かなかった。でも私は、みんなに言いたいの。みんなと手を取り合いたい。VOICEの声をひとつにして、大きな声を届けたい。兄さんは、協力してくれるでしょう」
悟さんは、こころを見つめた。
「覚悟はできているんだな」
「私にしかできないことだから……」
悟さんはうなずいた。
「それならいい。VOICEへ戻ろう」
それから、私たちはポッドをゆるゆると基地へ向かって進めていった。
ジャングルの道なき道を進むのは時間がかかった。
回り道をしたり、難所を乗り越えたりしながら、先へ進める間、こころは焦れてイライラし始めた。
「どうせ基地に戻るのなら、もっと早く出発すればよかったのに」
こころは、すねたように言った。
「兄さんはもともと、VOICEに戻るつもりだったんでしょう」
「何を言うんだ。お前を無理やり連れ帰ったりしたら、船の時の二の舞だろう」
悟さんは言い返した。
「ああして話し合わなければ、お前は自分の望みさえ分からなった。いくらお前のわがままに慣れている僕でも、これ以上尻拭いさせられるのはごめんだ」
こころは悟さんをにらみつけた。
「えらそうな言い方! いつまでも子ども扱いして」
「一人前の口を利く前に、もう少し大人になれ。誰のお蔭で今まで生き延びてこられたんだと思っているんだ」
やっと和解したと思ったら、またこれだ。
私は、はらはらしながら二人の口げんかを見守っていたが、悟さんがおかしげに頬をゆるめたのを見て、あれ、と思った。
こころがじきにくすくす笑い始め、悟さんもつられて笑い始める。
いつのまにか、腹を抱えて大笑いしている二人を、私は当惑しながら見つめた。
「ごめん、絆」
こころが、私の肩に頭を持たせかけた。長い髪から、ふうわりと、いい香りがした。
私は幸せな気持ちになった。
心配しなくても、二人は、きちんと通じあっているみたいだ。
ずっとこのままいられたら、どんなに幸せだろう。そう思った。
ゆっくりと、けれどあっという間に、時は過ぎていき、じきに夜になった。
ポットを止めて休んでから、私たちはまた基地に向かって進み始めた。
悟さんの感情はまだ消えてはいなかったらしく、時々こころと冗談を言っては笑い合っていた。
まるで昔からずっとそうしてきたかのように。
けれど、本当は二人のほうこそ、心の底から望んでいたに違いない。この瞬間がずっと続けばいいと。十六年分の心の交流を、わずかな時間に詰めこむようにして。
それでも、基地が近づくにつれて、二人とも会話が少なくなり、表情も硬くなった。
悟さんが感情を失いかけているのか、緊張しているだけなのか、私にはよく分からなかった。
』
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