第30話 アイスクリームの味

『翌朝、目が覚めた時には、私はすっかり自分の家で眠っているつもりになっていた。

 部屋の様子を見て何かおかしいと感じ、電話が鳴りだしたのを聞いて、自分が未来にいることを思いだしたが、まだ夢の中にいるような気分だった。

 今いるのが、はるか遠くに離れたところなのだと実感が湧いたのは、受話器の向こうのお兄さんの声を聞いてからだった。

 それから、お兄さんのユニットにお邪魔して、バルコニーで朝食をとった。

 バルコニーの向かいには、オレンジ色の壁が見え、外国の町みたいだった。壁の隙間からは、青い海が見えた。

 下で往来を行き来する人の姿を見ていると、それが偽物の景色だとはとても思えなかった。

 未来の世界が天国なのか地獄なのか、私にはまだよく分からなかった。

 食事が終わると、鳩がバルコニーに飛んできて、足元にとまった……と思ううち、みるみる大きくなって、女の人の姿になった。

 本当に、魔法の世界にやってきたみたいだ。

 鳩から返信したリナは、一緒のテーブルに腰を下ろしたけれど、動作が少しぎこちなかった。傍受されないように、通信経路を工夫して、暗号化しているせいだと言う。

「アニマの残したキーワードから、暗号の可能性を考慮していろいろ解析してみたけれど、残念ながら今のところそれらしきものは見つかっていない。だから、言葉通りにまず緑の森を探してみたわ」

 リナが手を伸ばすと、テーブルの上に都市の地図が広がった。

「『森』というほど大きいものは、江戸シティの広場にはないみたい。樹木の多い広場を再現したものならば、皇居、江戸植物園、昆虫博物館、日本の各時代の植生を再現した『森と緑の歴史館』、月替わりで世界中の森を再現している『緑の公園』……隣のポリスまで足を延ばせば、かなり規模の大きい森林公園がある」

 お兄さんが、机の上に文字を描くようなしぐさをした。

 こころの残した言葉が、浮かびあがった。

『私は、緑の森へ行く。私を包みこんでくれた、あの安らぎを求めて。温かい思い出にめぐりあうために』

「双葉さん、この言葉で、何か思いだすことはある?」

 私は、こころと過ごした時のことを、一生懸命思いだそうとした。

 最初に心に浮かんだ光景は、中学のころの景色。こころの家の近くにあった神社だった。

 こころが初めて私に秘密を打ち明けてくれた時のことだ。

「社の森……確かに、神社ならば、安らぎを感じることはあるかもしれない。こころにとって、君と過ごした記憶は、温かい思い出と言えるかもしれないね」

 リナが地図を指差した。

「江戸シティだけでも、三十八の神社があるわ。そのうち、それなりの規模の森を持つところが九つ」

「そんなに多いのか」

 お兄さんは、思案する表情になった。

「たぶん何かを見落としているんだろうが……時間がない。とにかく行けるところから探してみよう」

「応援を追加しましょうか」

「いや。あまり大勢うろうろしていると、ディスカバラーの目をひくかもしれない。アニマが感知して逃げだす可能性もある」

 VOICEにいた他の幹部たちと違い、リナはお兄さんを気づかってくれているようだった。

 リナは、私たちを励ますように言ってくれた。

「無事に見つかるといいわね」

 未来の人たちが皆非情というわけではなさそうで、私はほっとした。


 その日は、一日中歩き回ることになった。

『森と緑の歴史館』から始め、午後には神社めぐり。

 右も左も分からなかった私にも、ようやくこの世界のルールが飲みこめてきた。

 広場にもユニットにも、かならず『入り口』と『出口』があるようだ。広場の場合、入り口と出口は、ばらばらになっていることもあるし、複数あることもある。

 別の場所へ向かうには、必ず行き先を頭の中でイメージしてから、出口へ入らないとならない。そうすると、通路が現れ、目的地の入り口へ連れていってくれる。イメージしないまま歩き続けると、いずれ端に行き当たるか、いつまでも同じ場所をぐるぐる歩き回り続けることになってしまう。

 そうはいっても、私にできることといえば、お兄さんにくっついて神社を散策して回り、社の前で手をあわせることぐらいだった。

――こころ、出てきて、お願い。

 祈りもむなしく、その日一日周り続けても、こころらしき姿は見当たらなかった。

 七つ目の稲荷神社に回り終えたころには、夕暮れになっていた。

 足は棒のようになり、つまさきがズキズキしていた。私は神社へ続く階段の下でへたりこんだ。

 こころは無事なんだろうか。

 お兄さんも、めずらしく疲れた顔をしていた。

 以前こころがいなくなった時には、ほとんど表情を変えなかったけれど、何かを感じ始めているのだろうか。

 生まれて初めて経験する感情が、『心配』や『孤独』ばかりでは、あまりにひどすぎる。

『安らぎ』を感じてほしい、こころと再会して『温かい思い出』を作ってほしい。

 夕焼け空の下を、カラスが飛んでいくのが見える。セミの鳴き声が周囲から湧きあがるように聞こえてくる。

 参道の入り口には、アイスクリームの屋台が出ていた。

 階段の辺りでは、男の子が二人、ちゃんばらごっこをしていた。四、五歳の女の子がつきまとっている。三人とも、よく似た目鼻立ちをしているところを見ると、兄弟かもしれない。

 男の子たちは、手にした玩具でふざけあっていた。

 大きいほうの男の子が手にしているのは、短い棒のようなものだった。両側から緑の炎が噴きだして、ふりまわすたびに伸びたり縮んだりする。

 もう一人の子はT字型の道具を握り締めていたが、その先からは、サーベルのように、赤い光が伸びていた。

 妹は仲間に入れてもらいたいようで、しきりに伸びあがって、サーベルを取ろうとする。

「おまえ邪魔、危ないって」

 弟が、妹をじゃけんに振り払い、年上の子につきかかった。

 緑の炎と赤い光が触れ合うと、虹色の星がいくつも生まれて飛び散った。

 女の子は歓声をあげ、星をつかもうと手を伸ばす。

「わ、バカ、お前……」

 兄が慌てたように言ったとたん、振り回したサーベルの柄が、勢いよく女の子の額にあたった。

 私は思わず手を口に当てた。

 女の子の顔がくしゃっとゆがんだ。

 みるみるうちに目に涙が浮かびあがる。

 だいじょうぶだろうか、両親はどこにいるのだろう、と、辺りを見回していると、弟が、あわてたように女の子にかけより、前髪をかきわけた。兄も急いでかがみこむ。

 幸い、けがはたいしたことないようだった。女の子は、すがりついてしゃくりあげはじめた。弟は背中を、よしよしというように叩く。

 私は、子供のころの自分を思いだした。

 一緒に遊んでほしくて、兄貴について回っていたっけ。妹よりも同じ年の男の子と遊びたい年ごろだった兄貴は、ちょっと迷惑そうだった。

 それでも、私が迷子になったりしないように気をつけてくれていたし、怪我をすれば、まっさきに心配してくれた。

「君にも兄弟がいるの?」

 私の心を感じ取ったのか、お兄さんがふと尋ねた。

「兄が一人、いました」

「いた?」

「交通事故で亡くなったんです。私が六歳のときに」

「ああ……悪いことを聞いたね」

「いいえ」

 兄貴のことを思いだすのは嫌ではなかった。

 私の中で、それは、セピア色の思い出に変わっていた。

 六つ離れた兄貴は、なんでも私より上手にできた。勉強でも、遊びでも、お手伝いでも。

 ゲームをすれば、いつも負かされて、口惜しくて、わんわん泣いた。

 そんな私を、兄貴は、からかったり、鬱陶しがったりしたが、最後には、頭をぐりぐりなでて言ってくれた。

『上出来だよ、お前の年にしてはさ』

 けんかの後は、いつも一緒にアイスクリームを食べた。

 どちらかが冷凍庫からアイスをとりだしてくると、それが仲直りの合図で、甘いバニラをすくいながら、じゃれあっていると、それまでけんかしていたことなどすぐに忘れてしまった。

「かわいがられてたんだな、君は」

「お兄さんみたいに、できた兄貴じゃなかったですよ」

「いいお兄さんだよ。『温かい思い出』というのは、今君が感じたようなものだろう?」

 私は恥ずかしくなってうつむいた。

「僕はそういう思い出を、あいつに作ってやれなかった。あいつにとって、『温かい思い出』や『一番の安らぎ』がどんなものかさえ、想像がつかない」

 お兄さんは淡々と話した。

「研究所を出て以来、あいつがそんな気持ちを抱いたことはなかったと思う。あいつはそのことを思い知らせたくて、僕にあんな伝言を残したんだろうか」

 お兄さんが悪かったわけではない。

 追われる身になって、生き延びるだけで精いっぱいだったはずだ。研究所を逃げだした時、こころは六つ、お兄さんにしてもまだ十二歳で、私よりずっと年下の子供だった。

 でも、こころの生活に安らぎがなかったことは確かだろう。

 こころはお兄さんに甘えたがっていた。でも、二人が心を通わすことは今までなかった。できなかった……

 お兄さんが、ふいに立ちあがり、屋台の男に近寄って、子供たちを指差した。

「三つもらえますか。あの子たちに」

「あ、いや、そんな。いいですよ」

 年上の男の子があわてたように言ったが、弟と妹は、うれしそうにケースを覗きこむ。

「じゃあ俺、チョコレート」

「わたし、イチゴ!」

 一番上の子は、困った顔で、それでも自分もバニラアイスを選ぶ。

 女の子は、泣いていたことなどすっかり忘れてしまったようで、口のまわりをべとべとにして、にこにこ笑っている。

 ケースの中には、色とりどりのアイスが並んでいた。

 バニラ、ミントグリーン、ローズピンク。金銀に輝くものや、虹色のものまである。

 お兄さんは私を振り返った。

「君もどう?」

「あ、いえ、私は」

 私もあわてて遠慮したけれど、お兄さんはもうひとつ注文してくれた。

 階段の上から、女の人が降りてきた。見たところ二十半ばにしか見えないが、女の子がぴょんぴょんと飛び跳ねて、近寄っていったところを見ると、お母さんのようだ。

「もらったの! アイクスリーム!」

「誰から?」

「あっちの人!」

 女の人は、警戒した様子でこちらを見たが、お兄さんが笑って会釈すると、少しまぶしそうな目になって、おじぎした。

「あらあら、すみません」

 お兄さんが愛想よく微笑むと、たいていの人は心の鎧を解いてしまう。

 こころや、VOICEの感応力者たち以外は。

 私の金色のコーンができあがった。

 気のせいか、アイスクリーム全体が、ぼんやり光っているようだ。おそるおそる舌をつけると、小さな星型の光が、はじけるように飛びだしてきた。

 びっくりして身を引くと、お兄さんが笑った。

「だいじょうぶ。やけどしたりしないから食べてごらん」

 私は目を閉じ、一口かじって飲みこんだ。口の中にほのかな甘さが広がり、雪のように消えていく。

「おいしい……」

 はかない後味が尾をひいて、またすぐ次を食べたくなる。

「こころもそれが好きだった。買ってやっても、喜んでもらえた試しはなかったけどね」

「そんな……そんなことはないです、きっと」

 私は懸命に言ったけれど、お兄さんは返事をしなかった。

 どうしてこの兄妹は、こうもぎこちなくなってしまうのだろうか。

 アイスクリームを食べていると、中学のころ、学校帰りにこころと寄り道した時のことを思いだした。あの日アイスクリーム屋に足を運ぶことになったのは、こころがこの味を思い浮かべたからだ。

 はかない甘さとともに、ほんの少し懐かしい感じがした。

 あれはお兄さんに買ってもらったアイスクリームの味ではなかったか。

「思い出って、その時は気づかなくても、後から温かい思い出になっていたりします。私も、兄貴が生きてる時は、お礼を言ったことなんてなかった。いなくなって初めて、いろいろしていてくれたことに気づきました。こころも、今ごろきっとお兄さんのことを思いだして……」

 話しているうちに、私は、今もお礼を言っていなかったことにいまさらながら気づいた。

「ごちそうさまです。すごくおいしいです」

 あわてて頭を下げると、お兄さんは、ちょっとおかしそうに微笑んだ。

 私に向けた目が、心なしか優しくなったように感じたのは、気のせいだっただろうか。

「あ、よかったら、お兄さんも、どうぞ」

「僕はいいよ」

 お兄さんは言ったが、ふと思い直したようだった。

「じゃあ、一口だけ」

 私は、急いでスプーンを差しだした。

 お兄さんがスプーンを口に運ぶ間、私は緊張してその姿を見つめていた。

 お兄さんは、目を閉じて、ずいぶんゆっくり口に含んだアイスクリームを飲み下した。めったに口にできない、高級な料理でも食べるみたいに。

 少ししてから、おもむろに目を開くと、言った。

「変わらないね」

「え?」

「プロジェクトFとやらの影響で、何か違って感じるか試してみた。でも、味は変わらないらしい」

 お兄さんが笑い、私も笑い返した。

「あ……後はどうぞ。私、もうお腹がいっぱいなんで」

 スプーンを返そうとするので、私はあわてて言った。

 お腹というよりは、胸のほうがいっぱいになってしまったし、このまま続きを食べたら、心臓のほうがどうにかなってしまいそうだった。

 その時、聞き覚えのある声がした。

「いらないんならもらおうか」

 ニセコだった。

 私がまだためらっている内に、ニセコはアイスクリームを取りあげて、ぺろりとたいらげてしまった。

 食べ残したものを、誰が食べようと構わないはずなのに、なんとなく汚された気がして、嫌な気分になった。

「ここにいるだろうって、姉さんから聞きまして」

 指で口を拭いながら、ニセコが言った。

「ニセコはリナの弟だ」

 お兄さんが私に説明してくれた。

「姉弟そろって、できそこないでね」

 ニセコは肩をすくめる。

「そんな風に言うものじゃない。リナは優秀だ」

「ハッカーとしてはね。感応力者としては不安定でたいして使えません。なんせタイプDですから。もっとも」

 ニセコはにやりと笑った。

「感情を持てば、タイプFもどうなるか分かりませんけど」

「それでこうやって、僕を見張っているわけか」

 お兄さんの言葉に、私は驚いた。

「へぇ、感応力は衰えていないのかな。それともお兄さんは賢いから、推理したんですか」

「人工的に感情を増幅させると、人は不安定になる。その話はサルースからも聞いている」

「そういうことです。気を悪くしないでください。アニマとお兄さんが、手を取り合って政府に駆けこんだりしたら、大変なことになりますからね」

「任務の重要性は理解している。どのみち、一週間で戻らなければ、『執行者』が僕の脳を食い尽くす」

 ニセコはちょっと気を呑まれた表情になったが、肩をすくめた。

「へぇ……そこまで覚悟しているとはね。さすがタイプFだ」

「覚悟は必要じゃない。一週間で戻ればいいだけのことだ」

「一週間以内に、アニマを見つけだして連れ戻すつもりですか」

「もちろんだ」

 さっきとは別人のような、迷いのない口調を聞いていると、私はかえって不安になった。

 こころの気持ちを気にかけているように思ったけれど、やはりお兄さんにとっては任務が最優先なのだ。

 命を懸けてでも、こころを連れ戻そうと考えている。

 どうすればこころが幸せになれるのか、私には分からない。

 でも、このままでは、こころをまた同じ状況に追いこむことになるのではないか。

 私の気分を感じ取ったのか、ニセコが私の方に目を向けた。

「お兄さんが積極的に僕らを裏切るとは思っていませんが、そっちのお嬢さんはどうでしょうね」

 私は目を合わせまいとしたが、ニセコは重ねて尋ねてきた。

「キズナ、君は本当に、俺たちの味方なのかな?」

 何か返事しなければ、と、私は口を開きかけたけれど、その瞬間、腹部に鋭い痛みを感じた。

 私は思わずお腹を押さえてうずくまった。

「双葉さん?」

 お兄さんがかがみこんで、私の顔を覗きこんだ。

 ニセコも少し驚いたようだった。

「あの、すみません……大丈夫……です」

 私は懸命に言った。

 ただでさえお荷物になりつつあるのに、迷惑をかけることなんてできない。

 腹痛ぐらいで。

 そう思ったが、脂汗がじんわりと浮いてくる。

「ニセコ、病院に連絡を」

「病院? 何を考えてるんですか。足がついたら……」

「この子の身に何かあったら、お前は責任をとれるのか?」

 ニセコは戸惑った顔になる。

「リナに連絡するんだ。いいから早くしろ!」

 お兄さんが怒鳴るのが聞こえた、と思ったあと、ふっと意識が遠のいた。』

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