第31話 病院
チャイムの音がして、ナオミは顔をあげた。
もう下校の時間だ。
窓から差しこむ夕日が、入口のドアをオレンジ色に照らしだしている。
ノートをしまおうとしたが、どうにも続きが気になった。
あと1ページ。もう少しだけ……
『気がついた時には、病院のベッドで寝ていた。
カーテンが柔らかく揺れ、天井に窓枠の影が斜めになって伸びていた。
お腹の痛みは嘘のように消えていた。
すぐそばに誰かいた。ニセコだと気づき、少しがっかりした。
お兄さんの姿は、見当たらない。
「お兄さんなら、アニマを探しに行ってる」
ニセコは歯を見せた。
「僕で残念だったね。まあ、おあいこだ。僕も、どうせお守りするなら、アニマの方がよかった」
そんなの、こころのほうだって願い下げだろうと思ったが、口には出さなかった。
もっとも、感応力者が相手では、口に出しても出さなくても、同じかもしれない。
「君はアニマのことを、よく知っているようだね。アニマに追いかけてくれと頼まれるなんて、君がうらやましいよ」
ニセコはゆがんだ笑いを浮かべた。
「タイプAは、優しいけれど気難しい。まして、あれだけの美人だ。みんなのあこがれの存在なのに、君はどんな魔法を使ってそんなに仲良くなったんだい?」
なぜこんな不愉快な言い方をするのだろう。
こころと私の間にあるものを、そんな風に表現されたくない。
ニセコも、VOICEのみんなも、こころをタイプAという器としてしか見ていない。
私はニセコの質問には答えず、話題を変えた。
「私、退院できるんですか?」
「君の病名を聞きたいかい?」
ニセコはくすくす笑った。
「腸炎だって。命に別状はない。疲れだとか、慣れない食べ物だとかのせいで、お腹を壊したんじゃないかと言っていた。ここは君の来た世界より、よっぽど清潔なのにね」
腸内細菌の比率が、標準的な日本人と違うと、医師も首をひねっていたという。
「そうそう、君は海の向こうから連れてこられた、回顧主義者の一員だということになっているから、口裏を合わせておいてね」
「回顧主義者?」
「政府の統治を嫌って、都市の外で、昔の生活を模倣して生きている少数グループさ。君はそこに嫌気がさして、逃げだしてきたことになってる」
「難民みたいなものですか? 通報されたりしませんか?」
「大丈夫じゃないかな。お兄さんは、女の扱いがうまいから」
ニセコは肩をすくめる。
「あの人の作り話に、診察してた女医さんも、すっかり感動しちゃったみたいでね」
「え?」
「この子を大事に思っている、退院したら自分が身元に引き取って、一生面倒を見るつもりだなんて言うもんだから、しまいには目に涙を溜めて聞いてたよ」
私は呆然とし、ニセコに鼻で笑われた。
「言っただろう、先生の気をひくための作り話だよ。まさか本気にしたわけじゃないだろうね」
私は顔がほてるのを感じた。
もちろん、本気にしたつもりはなかった。
ただ、たとえ作り話にしても、お兄さんがどんな顔でそんな話をしたのかと思うと、落ち着かなくなった。
「危ないなぁ。気をつけな。姉さんだって、昔、ころっとだまされちまって……」
「お姉さん……? リナさんですか?」
ニセコは、首を横に振った。
「もう一人、リナより年下の姉さんがいたんだ。もともと僕らをVOICEに誘ったのも、その姉さんだった」
政府の優秀な感応力者だったお兄さんは、所内に怪しい動きがあるのに感づき、お姉さんに近づいた。
ニセコのお姉さんは、お兄さんから、VOICEに関心があると聞かされて、脱走の計画を洗いざらい話してしまった。
待ち構えていた政府の軍隊の手で、脱走者たちは次から次に捕えられた。
リナとニセコは、命からがら逃げ延びた。
「今思いだしても、鳥肌が立つ。向こうは大勢いて、武器を持っていた。みんなが泣き叫び、逃げ惑っていた」
みんながパニックになる中で、お兄さんは、眉ひとつ動かさなかった。黙って冷静に、みんなの様子を観察していた。
ニセコたちはそれが、タイプFだから、怖がることができないからだと思った。
「姉さんは心配して、早く逃げろと声をかけた。その時、政府軍のお偉いさんが、お兄さんを見てにやっと笑ったんだ。そいつの感情が流れこんできて、ようやく真相に気づいた。ああ、裏切られたんだってな。間抜けだろう?」
ニセコの瞳には、暗い光が灯っていた。
「あの時のことは忘れられない。捕まった姉さんの、哀しそうな顔も」
「そのお姉さん……どうなったんですか?」
「さあ。生きているとは思えない。万一生きているとしても、記憶も容姿も書き換えられて、すっかり別人になっているだろう。それこそVOICEのメンバーを牢屋にぶちこんだりしているかもしれない」
自分を自分でなくされてしまう。
それは、命を奪われるより恐ろしいことかもしれない。
「初めてこっちで再会した時には、目を疑ったよ。まさかあの人がVOICEから、幹部待遇で迎えられるなんて」
ニセコの話は、本当なのだろうか。
リナの親切そうな様子からは、お兄さんとの間に、とてもそんな恐ろしい過去があることはうかがい知れなかった。
「今、もう一人の姉さんのことを想像したかい? そうさ、女ってのはバカなもんだよな。あれだけ痛い目を見たのに、リナときたら……」
ニセコはいきなり口をつぐんだ。
腕組みして、壁際にもたれかかる。
どうしたのかと思っていたら、じきにお兄さんが部屋に入ってきた。
ニセコの話を聞いていた私は、まともに目が合わせられなかった。
お兄さんは、私の動揺に感づいたようだった。
「どうかしたのか?」
「何も。昔話をしていただけです」
ニセコが腕組みをほどいて、身を起こした。
「お兄さんこそ、このところ、何か後ろめたいことでも感じているみたいですが、何か?」
「何の話だ?」
「僕の気のせいでしたら、忘れてください。タイプDのDは落ちこぼれ(ドロップアウト)のDだ、なんて言いますから」
ニセコは肩をすくめる。
「それじゃあ、今日はこれで退散します。ごきげんよう」
ニセコがいなくなると、心なしか部屋の空気が軽くなったように感じた。
お兄さんは、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
「気分はよくなった?」
澄んだ瞳に見つめられると、私の感じていたわだかまりは、どこかへ飛んでいってしまった。
「もう良くなりました」
「よかった。午後の診察を受けたら、ここから出られるだろう」
「こころの行方は分かりましたか?」
お兄さんは、首を横に振った。
「すみません。こんな時に。迷惑ばかりかけて……」
「君が謝る必要はない。迷惑をかけているのはこっちのほうだ。こころも僕も、君をこんな危険に巻きこむ権利は持っていない」
迷惑どころか、私はこころが私を必要としてくれたことが、何より嬉しかった。
ひとつだけ気がかりなのは、こころの行く末だった。
「こころを見つけたら、どうするつもりですか?」
お兄さんの表情が、少し硬くなった。
「やっぱり、あの基地に、連れ戻さないとならないんですか?」
お兄さんは、しばらく黙っていたが、やがて尋ね返した。
「君は、連れ戻さないほうがいいと思うのか?」
「私はよく分からないんです。どうするのが、こころにとって一番幸せなのか……でも……」
「アウディもサルースも、僕らを助けてくれた。こころを連れ戻さなければ、あの人たちを裏切ることになる」
私は暗い気持ちになった。
「VOICEがなくなれば、感応力者達はこの先も政府の道具として使われ続ける。こころが嫌がっていた道具として。僕らとしても、逃げ場がない。誰にも頼らずに、一生身を隠して生きていくわけにはいかない」
お兄さんの言うことは、理屈が通っていた。
お兄さんはただ、真剣に、忠実に任務をこなそうとしているのだ。政府にいた時は政府に対して、VOICEに来てからはVOICEに対して。
そういう意味では、ニセコの件にしても、理屈としては間違っていない。お兄さんとしては、すべきことをしただけに違いない。
けれど、こころには――周りの人の気持ちになりきってしまうこころには、お兄さんのしたことは許せないこと、耐え難いことだったはずだ。
二人はこのまま、すれ違いを続けるのだろうか。
しまいに、私は言った。
「お兄さんの言うことが正しいのかもしれません。でも……無理やり連れ帰ったりする前に、まずは話を聞いてあげてもらえませんか。こころの気持ちに、耳を傾けてあげてほしいんです」
お兄さんは、私の言葉に戸惑っていたようだったが、うなずいた。
「まずは、こころを見つけることが先だけれどね」
希望を持とう、と私は思った。
お兄さんは変わり始めている。きっとこころとも分かり合える。
その後に待ち構えている恐ろしい事件のことなど、想像だにしなかった。』
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