第7話 催眠術
『その晩、桐野先輩が、退行催眠をやってみる、と、言いだした。
「ほら、聞いたことない? ずうっとさかのぼっていくと、子供のころの記憶とか、前世が見えるって。実験台になってもらえるかな」
私はあわてて首を横に振った。
催眠術にかかって自分の過去のことを話すのは恥ずかしかったし、うっかりこころやお兄さんのことを口走ったりして、秘密をみんなに知られてはまずいと思ったのだ。
代わりにさくらが実験をすることになった。
本気半分、冗談半分だったように思う。
桐野先輩は、まじめな面持ちで振り子を揺らしはじめ、さくらも、真剣にその振り子を目で追っていた。
次第に眠くなってきたのか、さくらが目をしょぼしょぼとしばたたかせ始めたころ、先輩が尋ねた。
「二宮さん、聞こえますか」
「はい」
「あなたの名前は?」
「二宮 さくらです」
「好きな食べ物は?」
「ハーゲンダッツのバニラ、ストロベリー。あとはえーっと……忘れました……」
くすくすと笑い声が響いた。
「最近起きた印象深いことを、なんでもいいから教えてください」
「桜の木に、蜘蛛が巣をかけていました。人の顔に似ていました」
「誰の顔に似ていたんですか?」
「……分かりません」
記憶は相変わらず戻ってこないらしい。
桐野先輩は話題を変えた。
「二宮さん、去年の今ごろ、何をしていましたか」
さくらは返事をしなかった。
「二宮さん、聞こえてる? 去年のことを思いだして。あなたはどこで、何をしていた?」
「……分かりません」
桐野さんはしばらく沈黙した。
「じゃあ、入学式より前のこと……なんでもいいから」
さくらは目を閉じて、体をゆらゆらと揺らしていた。
なんだかおかしい。
私たちは、不穏な気配を感じて、顔を見合わせた。
教室の窓の外から、さっと風が吹きこんできて、私は身震いした。
「○×▽※☆?★……」
だしぬけに、さくらが、何か口走った。
でたらめに何か言ったようにも、聞いたこともない言葉のようにも思われた。
「なんて言ったの、二宮さん」
花森先輩が身を乗りだした。
「もう一度言って。日本語で、私たちに分かるように」
さくらが唇を動かすのに、私たちは、全身を耳にして聞き取ろうとしていた。
だが、さくらの口から飛びだしたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「あなた方の行為は、禁じられています」
抑揚のない、アナウンスみたいな口調だった。
私達は思わず息をのんだ。
「これは警告です。あなた方の行為は、禁じられています」
そう言ったきり、さくらはうなだれて、石のように動かなくなった。
視聴覚室の中は、しんと静まり返った。
「あ、あのぉ……」
桐野先輩がおびえたように、周りの先輩たちを見渡した。
「二宮さん、二宮さん、大丈夫?」
吉村部長が、かがみこんで声をかけた。
花森先輩が、さくらの肩をゆすぶった。
さくらは目を開けて、ぼんやりとした様子でみんなを見返した。
「あれ、どうしたんですか?」
「大丈夫?」
「大丈夫って、私……眠っちゃったんでしょうか? 何も覚えていなくて」
「よかった、とりあえず無事みたいだね」
吉村部長は、ほっとしたようだった。
「すみません……」
いつもマイペースな桐野先輩も、どこかしゅんとしていた。
「君が悪いわけじゃない。でも、素人があれこれやるのは危険だな」
「もしかして、あたし、変なものを呼び寄せちゃったんでしょうかぁ」
「今度、文献をあたってみるよ。今日はもう寝よう」
その晩は、なかなか寝つけなかった。
夜の校舎に止まるのはもちろん、寝袋で寝るのは初めてだった。
まして、あんなとんでもない体験をした後では、とても寝られるはずがない。
さくらも、どこか心ここにあらぬ様子だった。
「絆、もう寝た?」
隣から、さくらの声がした。
「まだ」
「なんだか私、寝られそうにない」
「私も」
寝袋に入ったさくらが、こちらに身体をねじったのが分かった。
「昼間、ごめんね」
「何が?」
「指輪。大事なものだったの?」
「さくらのせいじゃないよ」
言いながらも、私はぎゅっと目をつむった。
こころとお兄さんと体験した夢のような出来事。指輪は、それが夢ではなかったと証明してくれる、ただひとつの証拠だった。
ようやく取り戻した大切なものを、なぜまたなくしてしまったのだろう。
「もしかして、あの指輪って、ボーイフレンドからもらったの?」
さくらのだしぬけの質問に、私は思わず噴きだした。
「じゃあ、友達? ご両親からとか」
「そうじゃないけど……」
「やっぱり好きな人からもらったんじゃないの?」
「さくらったら……」
答えながら、思わず、顔がほてるのを感じた。
さくらの言葉は、まるきり外れているというわけではなかった。
でも、あの人は誰も愛せない。
私のようなつまらない女子高生ではなく、どんなに素敵な女性(ひと)だとしても。
感情というものをまるで持たない、持つことのできない人なのだ。
そうでなければ、とっくの昔に恋人ができていただろう。
こころのお兄さんが微笑んだら、誰でも簡単に心の鎧を解いてしまう。すごく素敵な笑顔だから。たとえその後ろに、心が存在しなくても。
私は小さくため息をつき、尋ねた。
「さくらこそ、好きな人、いるの?」
「いないよ。でも」
さくらは、聞き取れるか聞き取れないかの声になってささやく。
「悪い感じじゃないよね、ここの部長」
驚いた。
吉村部長が、かっこ悪いとか気持ち悪いとかいうわけじゃない。
ただ、変わり者だし、どこかぬーぼーとしていて、女の子から見て恋愛対象になりにくいタイプに見えたのだ。
「さくらみたいな可愛い子に告白されたら、大喜びじゃないかなぁ、あの人」
「まさか。私、子供っぽいし。いまだに中学生? って聞かれる」
さくらは本当に愛らしい子だった。
秀でたおでこに、少し童顔の顔立ち。もてるというより、誰にでもかわいがられそうな女の子。ドレスや着物でも着せて部屋に飾っておきたいような。
私もよく子供っぽいと言われたけれど、残念ながら、ふわふわしたドレスはあまり似合わない。
「私もよく中学生と間違われるよ。大人になるのって想像できないな」
「できないねぇ」
週明けには進路指導が始まることを、私は憂鬱な気分で思いだした。
如月高校は、受験校だけに、早くから準備を始めるのだ。
「進路、決めてる?」
「まだ考え中。保健室の先生が優しかったから、女医さんとか、憧れてるけど難しそうだな」
さくらは少し言葉を切る。
「絆は、教育系がいいかも。保母さんとか、学校の先生とか」
「どうして?」
「絆って、優しそうだから。子供の気持ちを分かってあげられそう」
「そうかなぁ」
私はくすぐったくなって笑ったけれど、その時はもちろん、私が先生になるなんて考えもしなかった。
さくらは、ため息をついた。
「大人ってさ、昔はみんな子供だったのに、子供のころのこと、忘れちゃってるじゃない」
「そうかもね」
「きっと私たちも、忘れちゃうんだろうけど。こうやって一緒に過ごしたこととかさ」
「忘れないよ」
「忘れるよ。絆だって、きっと大人になったら、私のことなんて忘れちゃう」
「忘れないって」
暗幕のすき間から、星空が見えた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
肉眼で見える星はわずかしかない。
無数にある星々の中で、とりわけ強く輝く星だけが、東京の空に光を届けてくれる。
思い出もきっと同じだ。
「きっと忘れない。入学式のことも、今日のことも」
指輪はなくなっても思い出は残る。
私はそう自分に言い聞かせた。
私たちは時を超えてつながっている。きっとそれが、何より大切なことだ。
しばらくして、隣から静かな寝息が聞こえてきた。
その日起きた不思議なできごとに、将来のことに、とりとめなく考えをめぐらせるうち、いつか私も眠りに落ちていた。』
ナオミはなんだか不思議な気がした。
あの双葉先生にも、私たちと同じぐらいのころがあったんだ。
この話が創作だとしても、友達と将来について語りあったこの場面は、先生が本当に感じていたことのように思えた。
大人は分かってくれない、なんて、話し合いながら、将来を不安に感じていた。
私はどんな大人になるのだろう?
教室にさえ居場所がないみじめな私。
いつかは、パパみたいに、確信をもって、これが自分の生きる道だ、と、言えるのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます