第9話 行き止まりのその先
放課後のチャイムが鳴ると、ナオミはすぐ、史学準備室に向かった。
急いでいたお陰で、ドアに細く隙間が空いていたのに気づかなかった。
デスクに腰を下ろし、ノートを開く。
しおりをはさんでいたわけではないけれど、昼に読み終えたページは、すぐに見つけることができた。
『翌朝は、なんだか落ち着かず、いつもより早くに目を覚ました。
たしか、まだ日が昇ったばかりだったと思う。家にいたらこんなに早く起きることはまずない。
ふと隣をみると、さくらの姿がなかった。
トイレにでも行ったのだろうか。それとも、また夢遊病みたいに、ふらふらとどこかに歩いていったのでは……
携帯電話が点滅しているのに気がついた。
いつのまにかメールが着信していた。
昨日は、ごめん。
大切な指輪なくしちゃって……
私がぶつかったせいだよね。すごく×2反省してます。
これからもずっと、私を忘れないで。
嫌な予感がした。
電話をかけてみたが、応答がない。
さくら。絆だよ。
このメールを見たら、すぐに電話して。
短いメッセージを送ってから、考えた。
さくらはもしかして、地下室へ降りていったのじゃないか。あの指輪のことを気に病んで、一人で探しに行ったのじゃないか。
話をしておけばよかった。指輪が見つかったって。
そもそも、指輪を落としたのは、さくらのせいではないのに。
先輩たちを起こそうかと迷ったが、指輪のことを詳しく話す羽目になりそうで心配だった。こころたちのことを、他の人に話すわけにはいかない。
私は、服を着替え、一人で一階まで降りていった。
地下へと続く踊り場のあたりに、つけっぱなしの懐中電灯が転がり落ちているのが目に留まった。
胸騒ぎがした。
やっぱり、さくらは地下へ降りたのだ。
降りていって懐中電灯を拾いあげ、階下を照らしだした。
そして、ぞっとした。
すぐそばにあるはずの壁は、消えていた。
代わりに、さらに地下へと降りていく階段が、闇の中へ伸びている。
しばらくためらったが、足元を照らしながら、下へ降りてみることにした。
十段以上降りても、まだ先があった。
三十段。四十段。
下から誰か出てくるのではと恐ろしかったが、辺りはしんと静まり返っていた。自分の息遣いと、革靴がタイルに当たる小さな反響音だけが、唯一の物音だ。
降りるにつれ、辺りの空気がひんやりとしてきた。
この階段はどこまで続いているのだろう。
ギリシャ神話に出てきた、冥府へ続く階段を思いだす。
八十段を過ぎた辺りから、数えるのもやめてしまった。
このまま永久に地下へと降り続けていくのではないか。そんな風に思い始めたころ、短い悲鳴が聞こえてきた。
私は思わず立ち止まって耳を澄ました。
今のはさくらの声じゃなかったか。この下にいる、誰かに襲われたのでは。
上へ戻って、先輩たちの助けを呼ぼうかと思ったが、そうしたらもう二度と、ここへはたどり着けない気がした。
さくらを一人で置いていくわけにはいかない。
足音がしないよう、革靴を脱いで、階段の隅にそろえた。
懐中電灯の出力を絞った。
ポケットに隠していた指輪をとりだして、指にはめた。
指輪は、私の不安に反応してか、ほんのりと温かくなっていた。
落ち着いて、落ち着いて。
さらに二十段ぐらい降りたところで、階段が突然途切れた。
階段が壁に行き当たったのではない。いくら照らしだしても、その先は墨を塗ったように真っ暗だった。
一番下の階段に立って、手すりにつかまり、おそるおそる足を伸ばしてみると、何かに触れた。
ゆっくりと体重をかけてみたが、沈まない。光をすべて吸い取ってしまう真っ黒な床でもあるようだ。
自分の足とソックスだけが、闇の中に浮いて見えた。
宇宙のただ中に放りだされたみたいで、恐ろしかった。
ぐるりと周囲に懐中電灯を向けたとき、如月高校の制服がちらりと見えた。
さくらだ!
懐中電灯を向けると、さくらの横たわった体が、やはりまるで暗闇の中に浮いているように照らしだされた。
私は急いで歩み寄ろうとし、その時、ぐいと誰かに手をつかまれた。
「嫌……!」
私はとっさに手を振り回し、懐中電灯を、誰かに向かって叩きつけた。
白衣を着た胸が、丸い形に浮かびあがった。光の輪が地面に落ちるにつれ、ズボンが、最後に靴が見えた。
誰かの手が、懐中電灯を拾いあげた。そうなるともう、暗闇から突きだした腕と、懐中電灯しか見えなかった。
文字通り、漆を塗りこめたような暗闇の中で、私は必死になって逃げようとした。
懐中電灯から遠ざかると、床も、自分の足さえも見えない。
平衡感覚を奪われて、よたよたと走っていた私は、何かにつまづいて、勢いよく転んだ。
よつばいになって起き上がった時、視界の端に、ぼんやりした白い靄のようなものが現れた。
大きな、私の背丈の何倍もある装置のようだった。
その装置について、どうやって描写したらよいだろう。
無数の光の粒が行き来する細い管。
回転しているのか、ぱたぱたとはためいているのか、踊るように形を変える金属。
全体がぼんやりした光に、赤でも黄色でも青でもない、今まで見たこともないような不思議な色の光に包まれていた。
謎めいた装置に眩惑され、心が吸いこまれそうになって魅入っていると、誰かに足をつかまれた。
私は、めちゃくちゃに宙を蹴とばした。
指輪はすっかり熱くなり、どくどくと脈動しながら光を放っていた。
誰かの手が、私の腕をつかむ。
指輪を奪い取ろうとする。
ダメ!!
私は心の中で悲鳴をあげた。
それは、私と未来をつなぐ絆だ。
私は、こころを助けに行くのだから。
こころ……!!
指輪が強く光り輝いた。
突然フラッシュを焚かれたように、周囲の光景が浮かびあがった。
巨大な装置。
追いすがる白衣の男。
横たわったさくら。
すべてが闇の中から光のもとに浮かびあがり、写真のように静止した。
次の瞬間、とても奇妙なことが起きた。
周囲の景色が、ぐんにゃりと溶け、後ろへ、後ろへ流され始めた。
引き伸ばされた装置が、部屋が、飴のように伸びて闇に溶けていく。
前方のはるか彼方から、黒い、丸い闇が、ドーナツの穴のように広がってきて、私を呑みこんだ。
ブウン、とうなる、小さな羽音のようなものが、私の背後から追いかけてきているように感じた。
よく聞けば、それは、音ではなく、小さな感情の波だった。
地下室へ降りる時に感じたあの不安の塊。
波が後から後から押し寄せて、私をどこかへ押し流していくように感じる。
それがどこからやってくるのか、私は振り返って確かめようとした。
首が動かなかった。
首?
そもそも、私の首はどこにあるのだろう?
手は?
足は?
身体は?
私(、)は(、)どこ(、、)……?
ドーナツの中心に、小さな輝く光が現れ、瞬く間に広がって、私を包みこんだ。』
ブウン、と、うなるような音を聞いた気がして、ナオミは顔をあげた。
まるでノートの中から、『私』を追いかける感情達が、こっちの世界に飛びだしてきたみたいだ。
違う、これは誰かの……いびき?
ナオミは立ちあがって、音のするほうを探した。
左手の間仕切りの向こうから、誰かの足が覗いていた。
驚いた。誰か向こうで眠っているんだ。
おそるおそる間仕切りの向こうを覗きこんで、さらにびっくりした。
同じクラスの霧島 正臣だ。
霧島は、シャツの胸をすっかりはだけて寝ていた。胸の上にチョーカーがあり、それが青白い、どこか神秘的な光を放っている。
見てはいけないようなものを見た気がし、ナオミは顔をそむけた。
霧島とは、一度も話したことがなかった。クラスの男子生徒たちとも、あまり親しくしていないようだ。
言ってみれば、クラスの中で一人、浮いている。ちょうど、今のナオミと同じように。
霧島がみんなにいじめられている様子はなかった。むしろ、クラスメイトたちは彼に一目置いているようで、『霧島さん』と、さんづけで呼ぶ。以前、その理由を花梨(かりん)が教えてくれた。
『留年生なんだよね、霧島さんて』
勉強ができないというよりも、なにか持病があって進級できなかったらしい。
だがなぜ、こんなところで寝ているのだろう。具合が悪いなら、保健室へ行けばいいのに。
きびすを返そうとしたとき、いきなりドアが開いて、鋭い声がした。
「ここで何をしているんだ」
ナオミはぎょっとして立ちすくんだ。
部屋の入口に、化学の古瀬先生が立っていた。
前に古瀬先生が、双葉先生と話しながらここへやってきたことを思いだした。
そういえばその時、霧島、という名前があがっていたように思う。
歴史の先生と、化学の先生と、留年生。
なんとも奇妙なとりあわせに、ナオミの頭は混乱する。
古瀬先生は、それ以上何も言わず、じっと自分を見つめていた。
ナオミは落ち着かない気分になってきた。
「すみません、失礼します……」
ナオミは頭を下げて部屋を出た。心臓は、まだずっとばくばくしていた。
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