第10話 別世界に行きたい

 ブウン、と、うなるような音を聞いた気がして、ナオミは顔をあげた。

 まるでノートの中から、『私』を追いかける感情達が、こっちの世界に飛びだしてきたみたいだ。

 違う、これは誰かの……いびき?

 ナオミは立ちあがって、音のするほうを探した。

 左手の間仕切りの向こうから、誰かの足が覗いていた。

 驚いた。誰か向こうで眠っているんだ。

 おそるおそる間仕切りの向こうを覗きこんで、さらにびっくりした。

 同じクラスの霧島 正臣だ。

 霧島は、シャツの胸をすっかりはだけて寝ていた。胸の上にチョーカーがあり、それが青白い、どこか神秘的な光を放っている。

 見てはいけないようなものを見た気がし、ナオミは顔をそむけた。

 霧島とは、一度も話したことがなかった。クラスの男子生徒たちとも、あまり親しくしていないようだ。

 言ってみれば、クラスの中で一人、浮いている。ちょうど、今のナオミと同じように。

 霧島がみんなにいじめられている様子はなかった。むしろ、クラスメイトたちは彼に一目置いているようで、『霧島さん』と、さんづけで呼ぶ。以前、その理由を花梨(かりん)が教えてくれた。

『留年生なんだよね、霧島さんて』

 勉強ができないというよりも、なにか持病があって進級できなかったらしい。

 だがなぜ、こんなところで寝ているのだろう。具合が悪いなら、保健室へ行けばいいのに。

 きびすを返そうとしたとき、いきなりドアが開いて、鋭い声がした。

「ここで何をしているんだ」

 ナオミはぎょっとして立ちすくんだ。

 部屋の入口に、化学の古瀬先生が立っていた。

 前に古瀬先生が、双葉先生と話しながらここへやってきたことを思いだした。

 そういえばその時、霧島、という名前があがっていたように思う。

 歴史の先生と、化学の先生と、留年生。

 なんとも奇妙なとりあわせに、ナオミの頭は混乱する。

 古瀬先生は、それ以上何も言わず、じっと自分を見つめていた。

 ナオミは落ち着かない気分になってきた。

「すみません、失礼します……」

 ナオミは頭を下げて部屋を出た。心臓は、まだずっとばくばくしていた。


 ノートはまだ、ナオミの手の中にあったが、続きを読むことはできなくなってしまった。

 すごくいいところだったのに。

 今日はもう帰ろうと思ったが、ふと気になって、足を特別校舎ヘ向けた。

 特別校舎の北側には、あのノートに書いてあった通り、地下へと続く階段があった。『立ち入り禁止』と書かれた札も立っていた。

 壁際にもちゃんとスイッチがあって、押すと、青白い蛍光灯がパチパチとまばたきながら、階下を照らしだした。

 階段を下りる間、なんだか、本の中の世界に入っていくようでドキドキした。

 踊り場を折れた先はーーー

 ノートに書かれていた通りだった。

 数段で降りた先に、行き止まりの壁。

 床にはバケツが置かれ、モップやほうきも立てかけてある。

 きっと、ここは物置代わりに使われているんだろう。それを、双葉先生が創作に利用したのだ。

 ナオミは一番下まで足を運び、行き止まりの壁に触れてみた。

 あのノートに書かれていたことが本当ならばと思う。

 この先に、まったく別の世界が広がっていたら。

 この息苦しい学校から抜けだせる、不思議な未来の世界が広がっていたら。


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