第11話 バクスター効果

 翌日は、双葉先生は研究日でお休みだった。

 朝、準備室に行ってみたナオミはがっかりした。

 入口にカギがかかっていたのだ。

 早いところ、ノートの残りを読み終えて、机の中に返そうと思っていたのだけれど、当てが外れた。

 ひょっとしたら先生は、ノートが盗まれたと思って、カギをかけていったのだろうか?

 そう考えると、次第に不安になってきた。

 秘密のノートを勝手に持っていかれたと知ったら、いくらぼんやりした先生だって、きっと怒るだろう。

 ナオミがこの部屋にいたところを、古瀬先生に見られている。双葉先生もその話を聞いただろうか。

 そうだ、古瀬先生に会ってみよう。

 昼休み、鞄を抱えたナオミは、史学準備室へ行く代わりに、特別校舎に足を運んだ。

 化学準備室のドアをノックするのには、勇気がいった。

 君のしたことは泥棒だ、と、怒られたら?

 そうしたら、正直に話そう。双葉先生にも謝ろう。あんまり面白かったので、つい持ちだしてしまいました。どうか最後まで読ませてくださいと、お願いしよう。

 勇気を出して、ノックしてみたが、返事はなかった。

 いないのだろうか。

 ナオミはそっとドアを開けて中を覗きこんだ。

 風が吹きこんだのだろう、向こうを向いて背中を丸めていた古瀬先生が、派手にくしゃみをしてふりかえった。

 ナオミを目にした先生は、ひどく驚いたようだった。

 ずり落ちかけた眼鏡の向こうから、怪訝な顔で自分を見ている古瀬先生に、ナオミはおそるおそる言った。

「あの、すみません。私が黙って準備室に入ったこと……」

 古瀬先生は首をかしげてこっちを見ている。

「怒ってましたか、双葉先生」

「ええっと……準備室って、史学準備室のこと?」

「はい。あそこで、お昼ごはんを食べていたんです」

 ナオミは言い訳した。

「なんだかあの部屋、居心地がよくて」

「ふぅん」

 古瀬先生は興味なさそうに言って、手を振った。

「ドア、閉めてくれないかな。温度が変わるから」

 ナオミは後ろ手にドアを閉めた。

 鼻をつんとつく有機溶媒の匂いがした。

「あの部屋、カギが閉まっていたでしょ、今日は」

「はい……」

「ここで食べていったら」

 古瀬先生が、部屋の中を指し示した。

 ナオミは困惑して、部屋の中を見渡した。

 部屋にはいくつか丸椅子があったが、机の上には、ビーカーやらフラスコやら得体のしれない薬剤の瓶やらが散乱していた。お弁当を広げる余地などほとんどないように見える。

 部屋の隅に居心地よさそうなカウチがあるのに気がついた。きれいなパッチワークの敷物が敷いてある。

 そこに腰を下ろし、ひざの上にお弁当を広げた。

 自分から誘っておいて、古瀬先生はそれから一言も話しかけなかった。

 授業の下準備なのか、自分の研究なのか、じっとフラスコに見入ったままだ。

 弁当を食べ終わったナオミが、立ちあがり、

「どうも、お邪魔しました」

 と頭を下げる段になって、ようやく顔をあげた。

「君、何組だっけ?」

「二年三組です」

「ああ、双葉先生のクラスなんだ。名前は?」

「水城 ナオミです」

 古瀬先生は、額をつついた。

 たしかそんな科学者が、とか、ぶつぶつつぶやいている。

「よかったらまたここにおいで。ついでに暇なら研究を手伝ってくれないかな」

「研究、ですか?」

「しばらく花森君が休みだから、手が足りなくてね」

 誰だったろうと思い、それから、古瀬先生の助手のことだと思いだした。

 そういえば、双葉先生のノートに出ていた先輩も、花森という名前だった。きっと偶然だろうけど。

 部屋を出てから、結局何も話さなかったことに気づいた。

 ノートを持ちだしてしまったこと。そもそも双葉先生がそのことに気づいているのかどうかも、なぜあそこに霧島がいたのかも、なぜ古瀬先生が双葉先生の部屋に入ってきたのかも分からないままだ。

 だが、古瀬のひょうひょうとした様子を見ていたら、何もかもどうでもいい風に思えてきた。

 ナオミは小さくため息をついて、化学準備室を後にした。


 その翌日も、ノートを読む機会はなかった。

 史学準備室には相変わらずカギがかかっていて、やっぱり双葉先生は、ノートを盗まれたと思っているのじゃないかと心配になった。

 お弁当をどこで食べようか迷ったすえ、中庭に腰を落ち着けた。

 薬品の臭いのする化学準備室は、昼ごはんに適しているとは言えないし、先生が隣にいるのではどうにも落ち着かない。

 もっとも古瀬先生は、いたかいなかったか忘れてしまいそうなぐらい、存在感が希薄なのだけれど。

 一人でお弁当を食べていると、手持無沙汰で、ナオミは携帯を覗きこんだ。

 そこで、見たくもない裏ブログをつい覗いてしまった。

 ナオミの悪口は増えていなかったが、代わりにこんな新しい書きこみがあった。


 KさんがF先生とつきあってるって噂、ほんと?


 F先生。Fで始まる先生は一人しか思い当たらない。双葉先生。

 Kさんって、まさか、霧島さんのことだろうか。

 その下に、いくつかコメントがある。


 >F先生はK先生とつきあっていると思われ。

 >K先生って誰よ?

 >マッドサイエンティスト。

 >嘘~~~?! それきもい。


 K先生って、古瀬先生のことだろうか。

 準備室を訪問してきたぐらいだから、親しい間柄ではあるのかもしれない。

 しかし、悪趣味だ、と、思う。

 なぜこんな風にこそこそ陰で噂話をするんだろう。

 みんな、どうしてか、思っていることを言わず、思ってもいないことを口にする。

 このところ、ナオミはすっかり人間不信に陥っていた。

 双葉先生のお話に出てきた友達のように、人の心が分かればいいのに。

 それとも、心が読めたら、うんざりしてしまうだろうか。みんなが自分のことを悪く思っていたりするのに。

 携帯を鞄にしまい、顔をあげると、当の古瀬先生の姿が目に留まった。植木鉢をたくさん抱え、温室から特別校舎へ向かって、よろよろと歩いていく。

 目が合うと、先生は救いを求めるように声をかけてきた。

「ねえ、水城さんだっけ? これ、運ぶの手伝ってくれないかな」

 ナオミは立ちあがって先生のところへ行き、植木鉢をふたつ、手にとった。

 なんの植物かは分からない。白い縁取りのついた細い葉っぱがたくさんついている。

 準備室に入ると、古瀬先生は植木鉢を並べ、根本からの高さや茎の太さを測り始めた。

 ナオミは言われる数字を、わけも分からぬまま、部屋の隅にあるオンボロのパソコンに打ちこんだ。

 ようやくひとしきり入力が終わると、ナオミは尋ねた。

「なんの実験なんですか、これ」

「植物に人の心理が与える影響を調べたんだ」

「人の心理? 植物に人の心が影響するんですか?」

「さあ、それを確かめるために実験してる」

 古瀬先生は、あっさりと肩をすくめる。

「植物に愛情こめて育てると、よく成長するなんていう話がありますね」

「そうそう、まさにそれだ。バクスター効果とかね」

「なんですか、それ」

「バクスター氏の実験さ。彼は、植物に嘘発見器をつないで葉をコーヒーに浸してみた。その時点では、とくに反応は現れなかった。ところが、今度はちょっと葉っぱを燃やしてみようと考えた途端、激しく反応が現れた。彼は、植物に人の心を読む力があると考えた」

「それじゃあ、科学的にも証明されたわけですか?」

「いや、その後同じ実験結果が再現されたわけじゃないし、一般の科学者には、似非科学の類だと思われているんじゃないかな。ただ、この学校はちょっと変わっているからね。他で分からない事実が、ここで発見されても不思議じゃない」

 ナオミは、思わず古瀬先生の顔を窺った。

 ここは特別な場所。双葉先生のノートに書いてあった言葉が、頭の中をよぎった。

「先生の研究対象って、植物だったんですか?」

「どちらかいうと、心理のほうかな」

「植物の心理学?」

「うーん、植物に限らず、虫でも、動物でも、人間でも。まあ、ふつうに心理学と言われているものとは違うね。超心理学なんて呼ばれたりもするけれど」

 それで納得がいった。きっと双葉先生は、ノートに書いてあった物語のとおり、超心理研究部にいたのだろう。それで古瀬先生が親しくしているんだ。

 一週間前のナオミだったら、この先生はちょっと頭がおかしい、と思って敬遠していたかもしれないが、今はそんな気になれなかった。

 むしろ、勝手に変な噂を立てている学校の生徒たちのほうを、厭わしく感じた。

 準備室の隅に、虫籠が並んでいるのに気がついた。

 ナオミは近づいていって、中を覗きこんでみた。

 一番左の籠には、ダンゴムシだかゾウリムシだかがたくさん這っており、その隣では蜘蛛が巣を張っていた。

 もしかして、人の顔を描くというあの蜘蛛だろうか。

 目を凝らしてみたが、まだ巣は作りかけで、よく分からなかった。

「虫や植物にまで、人の心が伝わるとしたら……」

 ナオミはつぶやいた。

「人間同士、もっと簡単に分かりあえていいはずなのに」

 人の心なんて、私にも分からない。そういうと、古瀬先生は肩をすくめて笑った。

「はは、奇遇だな、僕もだ。もっとも、ここへ来る子はたいがい何かそんなところがあるんだがね」

「……え?」

「ちょっと実験してみるかい? そうだな。来週の木曜、またここへおいで」

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