第2話 転校生の失敗
ナオミがこの学校にやってきたのは、二ケ月前のことになる。
二年生の二学期。九月頭からの編入。
いかにも日本の学校らしい、細い廊下を教室へ向かっていく間、ナオミは、戦場に赴くような心持ちだった。
家を出る前、窮屈な紺色のブレザーを着て、玄関の姿見の中に映った自分は、見知らぬ他人みたいに見えた。制服なんていう制度が、なぜ残っているんだろう。学校の生徒であるという刻印を押すため?
忌まわしい記憶と共に捨ててしまった、中学時代のセーラー服のことが頭をよぎった。
セーラー服は、もともと水兵の服からデザインされたものだったと聞いた記憶がある。
戦いに赴く戦闘服。
もちろん、戦争がどんなものなのか、ナオミは知らない。命を奪ったり奪われたりするような恐怖も、飢えも乾きも知らない。けれど、平和と言われる世界にいても、心と心の戦いはなくなることがない。
中学のころ、ナオミはクラスでいじめにあった。
今でもよく覚えている、キツネみたいな目をしたあの女の子は、初めのうち、ナオミにやたらと親しげにすりよってきた。ナオミは、キツネ(、、、)と、その子にぺったりくっついていたタヌキみたいなまん丸な目をした女の子と三人で、一日を過ごすようになった。
登校も、下校も一緒だった。昼休みも、水飲み場に行く時も、トイレに行く時も。
学校が終わっても、キツネはメールや電話をひっきりなしによこして、ナオミがすぐに返事しないとかんしゃくを起こすのだった。
ナオミを気に入っている、というより、思い通りにコントロールしようとしているみたいに見えた。
キツネはナオミに自分が好きなテレビを見るように強要し、服装や言葉づかいにまで口を出した。
マンガを貸してくれたりすることもあった。けれど彼女の好きなマンガは、ナオミの好みと違った。それなのに、お返しに別のマンガを貸すよう求められた。
マンガを買うのは両親から禁じられていたから、しかたなくナオミが好きな本を貸そうとすると、しかめっつらをされた。
「そういう本って、普通の(、、、)女子中学生は読まないよ。ナオミって変わってる」
ナオミはだんだんキツネから距離を置くようになった。
ナオミが思い通りにならないと知ると、キツネはコロリと態度を変えた。
登校から下校まで、ナオミは一人ぼっちになった。
タヌキは、あいかわらずキツネに従順に従った。無視しろといわれれば無視したし、目が合ってもあからさまに顔をそむけた。
それだけならまだいい。
最悪だったのは、キツネの流した悪い噂を、クラスメートも信じたということだ。
学校に行くのがだんだん辛くなり、休みがちになった。不登校なんて他人事だと思っていたのに、気がついたら丸三日、学校を休んでいたこともあった。
自分がそんなに弱い人間だったというのもショックだった。明るくハキハキしているのがとりえだと、両親にも小学校の先生にも、いつも言われていたのに。
そこに救いのクモの糸が垂れてきた。
パパが、カリフォルニアに転勤になったのだ。
「そんな見ず知らずのところに」
ママは反対した。
「断ることはできないの?」
「新しい支店を立ちあげるというから、自分で志願したんだよ」
一度行けば、三年から五年は戻ってこられないという。
「ナオミもいずれ受験だし、マナミだってまだ小学生なのに……」
「僕一人でも行く。これは僕にとってもチャンスなんだ。今までただ稼ぐために仕事をしてきていたけど、向こうに自分のやるべきことがある気がする」
パパは単身赴任することになり、ナオミは、ママと、小学生の妹と一緒に家に残っていたが、ある日、とうとう我慢できなくなった。
ナオミは一人で、アメリカへ転勤になったパパのところへ行くことに決めた。
逃げだしたい一心だった。怖くもあり、楽しみでもあった。
海の向こうでは、すべてが変わった。
日差しのさんさんと降り注ぐ西海岸。びっくりするぐらい大きな建物や道路。大柄な男たちと、小麦色の肌をむき出しにした女たち。
見ず知らずの土地で暮らすのは、大きな賭けだったが、ナオミにとっては、いいほうに転んだ。
クラスで中心的存在だったジャネットという女の子が、ナオミのことをすっかり気に入ってくれたのだ。
ジャネットは、日本人の父親とアメリカ人の母親を持つ日系二世で、家の外で日本語を話せるチャンスとばかりナオミに近づいてきて、もうひとつの母国の話を聞きたがった。
ナオミの黒くてまっすぐな髪をしきりに羨ましがり、キツネのバカにしていたアーモンド形の一重の瞳や小さな鼻も、キュートだと言ってくれた。誰もが認める美人だったジャネットは、ウェーブのかかった栗色の髪や、くっきりした目鼻立ちが、自分では気に入いっていなかったのだ。
前の学校でひどい目に合っていたナオミは、人と話すのが怖くなっていた。だから、英語が下手で、みんなの前で余計なことを言わずにすむのは幸いだった。
そのうち、英語が話せるようになってきたころには、ナオミは自分の意見をハキハキ言える明るい子に戻っていた。ジャネットは、自分の意見をはっきり言う子を好んだから。
英語さえどうにかなれば、授業は簡単だった。ことに数学など、一年前のほうがよっぽど難しいことを習っていたぐらいだった。
ジャネットは、ナオミのノートを借りたがり、代わりに最大限の賛辞を送ってくれた。
「ユー アー ジーニアス! ナオミは天才」
二人で同じハイスクールに進学し、そのままずっと一緒にいられるのだと思いはじめていた矢先、パパが日本に戻ることになった。
「ウィー アー フレンズ、フォアエバー」
ずっと友達だよ、と、二人でハグしあって泣いた。
ジャネットはビーズで作った腕輪をプレゼントしてくれた。ナオミは折鶴で首飾りを作って、ジャネットに手渡した。
パパはいろいろとツテをたどり、ナオミが私立へ編入できるようにしてくれた。
如月高校は、長い歴史を持つ名門だという。
構内には広い校庭と温水プール、テニスコート、体育館、バラ園と温室のある中庭があり、講堂は石作りで、入り口にギリシャ風の飾りのついた柱が並んでいた。
迎えてくれた担任の先生――双葉先生も、優しそうに見えた。
中学のころとは違う。そう信じたかった。
初めが肝心だ。どんな友達を選ぶか。どんな印象を与えるか。
ドントゥ ビー ア ルーザー(負け犬になるな)。
そうやってナオミは、この高校にやってきたのだった。
久しぶりに見る日本の教室は、なんだか窮屈で、違和感を覚えた。
生徒たちはみんなそっくりに見えたし――いつのまにか、金髪や栗毛、赤毛に黒髪に、青い瞳や、茶色い瞳が入り混じっているのが当たり前になっていた――椅子も机も一回り小さかった。
飛行機で久しぶりに成田空港についた時の第一印象を思いだす。
灰色のビル、灰色の曇り空、なぜか型にはめたように黒っぽい背広を着たサラリーマンたち。
それは先に続く灰色の生活を思わせた。
とんでもない。これから先に続くのが、灰色の生活だなどとは思いたくない。そんなのごめんだ。
戦闘開始。
ナオミは背筋を伸ばし、できるだけキュートに見えるよう、笑顔を作って言った。
「水城 ナオミです。よろしくお願いします」
教室の皆が自分を見てどう判断したのか、見ただけでは分からなかった。
良い印象を持ってくれたならいいのだけれど。
内心ドキドキしていると、双葉先生が、柔らかく補足した。
「水城さんは、カリフォルニアから転入してきたの」
おお、と、クラスがざわめき立った。
「初めはいろいろと心細いこともあると思うの。みんな、仲よくしてあげてね」
「りょうかーい」
と、クラスの誰かが声をあげた。
ちょっと茶色い髪をした男の子――足立 岳(がく)だった。
クラスのみんなが、好奇心を持って自分を見ているのが分かった。
転入生などめったにあるものではないし、まして、帰国子女というのは、珍しいのだろう。
昼休みになると、周りの女の子が集まってきて口々に声をかけた。
向こうの学校はどうだった? ねえ、英語ぺらぺらなの? 久しぶりの日本はどう?
ナオミも驚いたが、喜んで話した。
大学生と交流するホームカミングのこと。ハロウィンの仮装パーティや、クリスマス、イースターのイベント。
「学校の中で仮装パーティをするの?」
「そう、向こうの学校では、毎年いろんなパーティがあった。学校中に飾りつけして」
「楽しそうだね」
「高校を卒業する前には、みんなプロムっていうダンスパーティに出るの。男女ペアでパーティに出て、お化粧して、ドレスを着て、プロのカメラマンが記念写真を撮ってくれる。出られなくて、ちょっと残念だった」
「すっごい、ドラマの世界にいたみたい!」
みんな喜んで聞いてくれた。
まるであの人気者のジャネットになったみたいだ。
英語の宿題のことを聞きにくる子もいた。
英文法はあまり得意ではなかったけれど、聞かれると答えないわけにいかず、こっそり調べて何食わぬ顔で教えてあげた。
海外のペンパルが欲しいというクラスメートには、向こうの高校の友達を紹介し、英文メールの指導もしてあげた。
そうやってちやほやされてくると、心配していたのが杞憂に思えた。
そう、自信を持って堂々と。ジャネットみたいに庇護してくれる存在はいないけど、大丈夫。あのキツネみたいなのがいたって、私はもう負けない。私がジャネットになればいい。
肩肘をはっていたかもしれないし、調子に乗っていたかもしれない。
たぶん、それがいけなかったのだろう。
日本の学校では、目立ってはいけないのだ。
みんなと同じように、周りに溶けこむこと。灰色の服を着た、大勢の中の一人でいること。
それが身を守るすべだ。
知ってはいたけれど、そうなりたくなかった。
自分は自分らしい、特別な存在でいたかった。
ちやほやされたかったわけじゃない。ただ、自分に嘘をつきたくなかっただけだ。
それが、自分の人生を生きるということ、自分の役割を果たすということ。
ねえ、パパ、そうじゃないの?
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