こころ 時を超えた絆

七瀬 晶(ななせ ひかる)

第1話 秘密のノート

 とっさに飛び込んだドアの中が、なんの部屋だったか、ナオミは気がついていなかった。

 ただ、廊下を歩いてきたクラスメートの一団に、はちあわせしたくなかっただけだ。

 ドアの向こうを、談笑する声が、足音とともに通りすぎていく。

「あいつさぁ、ホント調子に乗ってるよね」

 その『あいつ』は、先生だったかもしれないし、テレビのタレントだったかもしれない。どこかのクラスの、見ず知らずの男子生徒のことだったかも。なのに。

――重症だ。

 ナオミは胃の辺りを押さえた。

――負け犬(ルーザー)。

 自分をののしる声がする。

 こんなはずじゃなかった。こんなつもりじゃ。

 きゅっと唇を噛み、ナオミは顔をあげて周囲を見渡した。

 薄暗い室内に目が慣れてくると、カーテン越しの光で、部屋の様子がなんとなく見えてきた。

 前方と右手に間仕切りのようなものがあり、正面の間仕切りの向こう側には、平机が半分覗いている。

 部屋の中は、どこか古びた匂いがした。

 それが、この学校の歴史そのものみたいに思え、それから机の上のプレートを見るにつけ、遅ればせながら、ここがなんの部屋であるか、ナオミにもようやく思い当たった。

『史学 双葉 絆』

 史学準備室。

 双葉先生の部屋だ。

 新しい校舎には不釣り合いな匂いは、資料となる古書だとか年季の入ったノートだとか、そういう時代を経たものに染みついたものなのだろう。

 初めて立ち入る先生の準備室――それも、勝手に入りこんだはずなのに――なんだか落ち着いた。誰も自分を見ていないと思うと、肩の力が抜けてほっとする。

 デスクの向こうへ周り、窓のカーテンを少しだけ開け、日の光が宙を舞う埃をきらめかせる様子を見つめた。

 それから、弁当のつつみを机に置き、先生の椅子に腰を下ろした。

 ひじかけ椅子がきしんだ音を立てた。

 のろのろと弁当箱を包むクロスを解いて、食事にとりかかる。

 いまひとつ食欲がなかったけれど、ご飯も、唐揚げも、ポテトも、ミニトマトも、がんばって喉の奥に押しこんだ。

 食べ終わった後、昼休みが終わるまでには、まだだいぶ時間があった。

 手持無沙汰になったナオミは、なんとはなしに、テーブルの引き出しをひいてみた。

 何か入っていることを期待していたわけではない。ほとんど無意識のしぐさだった。

 中には、一冊の大学ノートがぽつんと置いてあった。

 この先の講義の内容でも書いてあるのか。ひょっとして、期末テストの答案なんて書いてないだろうか。

 そんなことを思いながら、つい中をめくってみると、最初のページには、一行だけ、こう書かれていた。

『こころを探して』

 心を探す? どういうことだろう。

 興味をひかれてページを繰ると、小さな、几帳面な文字で、びっしりと字が書かれていた。

 ナオミの目は、一行目に吸い寄せられた。


『この学校にやってきたのは、運命だったのかもしれない。』


 大仰な出だしに、あっけにとられた。

 これは双葉先生の日記なのだろうか。

 あの、なんだかぼんやりして間が抜けているみたいな、双葉先生の?

 ノートには、まるでナオミの考えを見通したかのような言葉が続いていた。


『運命というと、とてもおおげさで、特別なものに思える。

 王様や革命家、あるいは学者や芸術家、歴史に名を残すような特別な人物にしか関係のないもの。

 私のような、ごく普通の人間には関係のないもの。

 けれど、誰にも与えられた運命があるのだと、自分のなすべき役割があるのだと、私は、こころを探す旅の中で、あの人から教わった。』


 運命という言葉には、どことなく、押しつけられるもののようなイメージがあって、ナオミは苦手だった。

 けれど、役割というのは、またちょっと違った印象がある。

『誰にでも与えられた役割があるんだよ』

 それがパパの口ぐせだった。

 カリフォルニアに行くときも、パパはそう言った。

 パパはカリフォルニアに、支店を立ちあげることになった。それがパパの役割だ。だから、どうしても行かなくちゃならない。ナオミはどうしたい?

 その時、その言葉はナオミにとって、神様のくれたチャンスに思えた。

 息苦しい日本の学校から、逃げだしたくてたまらなかったから……

 あれも運命だったのだろうか。だとしたら、なぜ私は今ここにいるのだろう。

 大人になることは、社会の中で自分の役割を演じられるようになることだ。

 パパはそうも言った。

 私に役割なんてあるのだろうか。

 それで、自分の役割を果たそうと頑張ってきた結果がこれ(、、)。

 哀れな敗北者(ルーザー)として逃げ回っている。こんな運命なら、どこか遠くへ投げだしてしまいたい。

 ナオミはノートの続きに目を落とした。


『この学校で、私は信じられないようなできごとを体験することになった。

 夢物語にしか思えない、けれど決して夢ではない、秘密の一週間。

 あの時の約束を果たすために、私はこの学校へ戻ってきた。

 忘れないうちに書き留めておこうと思う。

 自分がちっぽけで、何の意味もない存在だと感じていたあのころ、私にいるべき場所を教えてくれた、小さな、そして途方もなく大きな冒険について。

 これは私がこころを探しに旅をした物語だ。』


 すっかり吸いこまれるように読みふけっていたナオミは、ドアの向こうの足音を聞いて、はっとした。

 そこにかぶさるように、話し声も聞こえてきた。

「もう決心はついた?」

 男の人の声だ。

「まだ決めきれなくて……霧島君のことも……」

 答える声に聞き覚えがある――双葉先生だ!

 ナオミはあわてて立ちあがり、弁当の包みを手にして逃げだそうとしたが、間に合わない。

 ドアがバタンと開いた。

 ナオミは急いでテーブルの下にかがみこんだ。

 それから、なんてバカなことをしたんだろうと自分を責めた。

 先生が席についたら、すぐに見つかってしまうじゃない!

 けれど、ラッキーなことに、双葉先生ともう一人の先生――白衣の裾がちらりと見えた。化学の古瀬先生みたいだ――は、部屋を入ってすぐ右手の戸棚の向こうへ回ったようだった。

「僕なら迷わないけどねぇ」

 古瀬先生の声がする。

「毒を食らわば皿までって言うでしょう。まぁ、そういう、煮え切らないところが双葉先生らしいといえばらしいか」

 ナオミは素早くドアの方へ駆けだし、大急ぎで廊下へ飛びだした。それから、後ろもふりかえらず、いちもくさんに駆け続けた。

 先生たちは絶対、誰かが来たことに気づいたはずだ。姿を見られていないといいのだけれど。

 ああ、本当に、今日は逃げてばっかりだ。

 廊下を折れて立ち止まり、息をついて、そこでようやく、準備室からノートを持ちだしてしまったことに気がついた。

 しまった、と思ったが、今さら引き返すわけにはいかない。

 後でこっそり返しておこう。

 ナオミは打ちひしがれた気分で、のろのろと教室へ向かって歩きだした。

 手の中に大学ノートをきゅっと握り締めたまま。そのノートが自分にどんな運命を、役割をもたらすのか知らないままに。

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