第4話 如月高校の七不思議

 翌朝、ラッシュを避けて早めに登校し、教室の自分の席に着こうとして、机の上の落書きに気がついた。

『アメリカに帰れ』

 目の奥に、じわっと熱い塊が浮かんだ。

 バッカみたい。小学生みたいなことして。

 消しゴムをとりだして、ごしごしと消した。

 強がってみたものの、心臓がだんだんと苦しくなってくるのを、抑えることができなかった。

 消した後の残りかすも不潔な気がして、机の上からはたき落とした。

 それから、流しへ行って、ていねいに手を洗った。

 誰が書いたんだろう。

 写真を撮っておけばよかった、と、思った。

 何かあった時、証拠になるように。

 けれど、あんな文字が書かれているのを一秒だって我慢できなかった。机が汚(けが)れる。写真を撮ったら、携帯まで汚れそうだ。こんな風に思う私の心も、もうすっかり汚れている。

 どちらにしても、犯人は一人じゃないのだ、と、ナオミは思う。ぼんやりとした、正体の見えない敵意が、ナオミを取り巻いている。

 中学の時のほうがまだよかった。

 悪いのはキツネ(、、、)だとはっきり分かっていたし、後の子たちはそれに引きずられているだけだった。誰を憎んだらいいのか、はっきりしていた。

 今度のは、たちが悪い。文句があるなら、面と向かって言えばいいのに。

 いくじなし。卑怯者。

 クラスにこんなことが起きていることに、双葉先生は気づいてさえいないだろう。

 もっとも気づかれなくてほっとしている部分もあった。騒ぎになったら面倒だし、あの頼りなさそうな双葉先生では、問題を解決できそうにない。

 双葉先生、というキーワードで、大学ノートのことを思いだした。

 昨日の出来事は、白昼夢だったんだろうか。腑に落ちなかったが、ともかく、ノートを返しにいかなければならない。

 幸い、授業が始まるまでには、まだ間があった。

 ナオミは、史学準備室へ足を運び、人がいないのを確かめてから、中に滑りこんだ。

 準備室の中は、やはりどこか懐かしい匂いがした。

 ノートを机の引き出しに入れようとして、ナオミは最後にもう一度だけ、何気なく中を開いた。

 そして目を見開いた。

 そこには、はっきりと、こう記されていた。

『こころを探して』

 どういうこと……?

 昨日、電車の中で見た時には、たしかに何も書かれていなかったのに。

 部屋の空気が冷たくなった気がして、なんだかぞくりとした。

 この部屋の中でしか見えない、魔法のインキででも書かれているのだろうか。

 ナオミはページをめくった。

 その先にも、びっしりと書きこみがあった。


『中学のころ、私の人生は、周りに流されるばかりだった。

 息を潜めて、人の顔色をうかがって生きてきた。何度も転校を繰り返した私には、みんなと調子を合わせるくせがついていた。自分の本心を押しこめることで、なんとか周りに溶けこもうとしていた。

 そんな私の心をノックしてくれたのが、こころだった。

『あなたに本当の友達はいるの?』

 こころは私の胸の底に、そう問いかけた。

 こころと、その素敵なお兄さんは、私を嵐の中に巻きこんだ。

多くのものを失い、恐ろしい目に遭い、けれど、それ以上に素晴らしい、かけがえのない経験をした。

こころと私は親友になり、私は宝物のような日々が永遠に続いてくれればと願っていた。

 けれど、二人は、現れた時と同じように、突然、私の前から姿を消した。

 しばらく呆然自失の日々を過ごした後、私は記憶にすっかり蓋をしてしまった。

 代わりに私は別のことに打ちこんだ。

 受験勉強に。

 如月高校の学校案内を見たとき、どういうわけか私は、どうしてもその学校へ行かなければと感じたのだ。

 それは、生まれて初めて私が、自分で何かをしたいと思った瞬間だった。

 中学のクラスメートは誰ひとり希望していなかった受験高を目指して、私は必死で勉強した。

 胸にぽっかりと開いた空白を埋めるつもりで――でも本当は忘れてなどいなかったのだと思う。』


『こころ』というのは、友達の名前だったらしい。

 それではこれは、双葉先生の友達のことを書いたノートなのだろうか。

 先生が転校生活を繰り返していたというのは意外だった。友達作りに悩んでいたというのも。

 ナオミは興味を引かれ、先を読み進んだ。


『受験の日、私はこころのお兄さんからもらった指輪をつけていった。

 それは、私にとっての大切のお守り。私たちをつなぐ絆そのものだったから。

 如月高校に入りたい、という願いを、指輪は見事にかなえてくれた。

 その代わり、どこかへ消えてしまったのだ。

 教室。廊下。トイレ。

 必死に探し回ったのに、見つけられなかった。

 哀しかった。

 こころ達に、私たちのことはもう忘れなさいと言われた気がして。

 ところが、入学式になって、もうすっかり諦めかけていた私の手元に、封筒に入った指輪が届けられた。

 こころからと思われる短いメッセージと一緒に。

 私は、封筒を届けてくれた生徒を探して回った。

 長い髪をし、高校の制服を着ていなかったというその子は、きっとこころに違いない。

 満開の桜並木の下で、私は私服を来た生徒に出会った。

 けれどそれはこころではなく、見知らぬ女の子だった。

「この封筒、届けてくれたのはあなた?」

 念のため、聞いてみると、女の子は首を横に振った。それから、私服でいることを言い訳するみたいに、

「制服、間に合わなかったんだ。サイズが違うのが届いたの」

 と言った。

 女の子は二宮 さくらと名乗った。

 如月高校の『七不思議』のひとつを目にしたのも、この時だった。

 さくらは、見あげていた桜の枝を指差して、くも、と言ったのだ。

 雲ひとつない空を見あげていぶかっていると、

「ほら、そこに」

 指差した先に小さな蜘蛛がいて、枝と枝の間に、せっせと網を張っていた。

「あの蜘蛛の巣、変わった形をしてると思わない?」

 蜘蛛の巣には、上にふたつ、下にひとつ、切れこみがあり、それがちょうど、両目と口のように見えた。

「なんだか、人の顔みたい」

「あの顔、どこかで見たような気がする」

 私は驚いた。ちょうど私も同じことを思っていたのだ。

「誰だろう、有名人かなにか?」

「うーん、もっと身近な人だと思う。遠い親戚、それとも友達の誰かかな」

 さくらに言われて、私は、そうだ、こころに似ているのだ、と、気がついた。

 目の部分の穴の形は、あの兄妹の切れ長の美しい瞳にそっくりだ。

「分からないなあ、私、すっごく忘れっぽいから。ひょっとしたら、好きな人とか、宿敵だったかも」

 宿敵、などという、少年漫画のような言い方に、私は思わず笑ってしまった。

「あはは、いくらなんでも、好きな人とか宿敵の顔なら、すぐに思い出せるんじゃない?」

「それがね、私、致命的に記憶が悪いんだ。悪いことは忘れたほうがいいけど、大事な人のことを忘れちゃ、だめだよねぇ」

 さくらは、拳でおでこをこつんと叩いて、舌を出した。

 私は笑った。

 その言葉の持つ哀しい意味に、気づかないまま。

 それが、私とさくらとの出会いだった。』

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