第57話 手紙

「あなた達は、逆流を試した……」

 ナオミはつぶやいた。

「それで、VOICEは救われたんですか?」

 こころは手を伸ばしてノートをめくった。

 まだ次の頁が残っていたことにナオミは気がついた。


 二週間ほどして、私は机の引き出しに、見たことのない封筒が入っているのに気づいた。

 封筒の中には、手紙が二通、それに小さな包み紙が入っていた。

 一通目はこころからだった。


===

私の初めての親友、絆へ

元気ですか。私たちもなんとか元気にやっています。

絆のお蔭で、VOICEは最大の危機からどうにか脱することができました。

基地を移動し、中の体制を固め直し、ようやく少しだけ落ち着いて今こうして手紙を書いています。

感応力を持った者どうしで争うのはばかげたことだと私は思っています。

もっと仲間を増やして、いつか政府と和解するのが私の目標です。

私の<逆流>だけでは力が及ばないので、アウディの交渉力や、みんなの力が必要です。

 兄さんは、あいかわらず。でも、前より私の話を聞いてくれるようになりました。

 先日、エレモアが<逆流>で政府内部に内乱を起こせないかという話をしたけれど、私が望んでいないからと却下してくれました。

 この間なんて、一緒に映画を見ようと言いだしたので、びっくりしました。

 どうせ何も感じないんでしょうと言ったら、私が感じるのを、隣で感じ取ることはできるよって。

 その時は、ちょっと泣きそうになったけれど、普段は相変わらずで、けんかばかりしています。

 もっとも、向こうは本気で腹を立てることもないから、私の一人相撲みたいなものです。


 先日、兄さんが、心を失う前に、びっくりするぐらい長い手紙を書いていたのを知りました。一通は私宛てに、もう一通は絆宛てに。

今さら渡しても困らせるだけだから捨ててくれと言うのだけれど、そんなことは絶対にないからと説得しました。

私は手紙をもらって励まされたから。

絆の分を同封します。


 あなたの親友 こころより 

===


 もう一通は、言われたとおり長い手紙だった。

 私はそれを初め電車の中で、読み、それから何度も何度も読み返した。

一字一句、覚えてしまうくらいに。

それはこんな手紙だった。


===

 あと三〇分もすれば、僕は今の僕でなくなるはずだから、忘れないうちに君へ気持ちを伝えておきたいと思ってこれを書いている。

 僕はいま多少混乱しているので、支離滅裂なところがあるかもしれないが、許してほしい。

 伝えたいことはたくさんあるし、残された時間は限られている。

 君は利口で優しい子だから、きっとごった煮の中から、エッセンスをすくいだしてくれると思う。


 僕がこうして手紙を書いている一番の理由は、君に感謝の気持ちを伝えたいためだ。

 もうひとつは、もっと身勝手な理由――僕の<変身>を見届けた生き証人に、一部始終を知っておいてほしいということ。

 君にとっては迷惑なことかもしれないが、乗りかかった舟だと思って許してほしい。

 君はおそらく僕の一番の理解者で、初めてできた友人だから。


 こころを探す以外に、僕にはサルースから与えられていた仕事がある。それは、旅の間、僕自身の観察記録をつけるということ。

 僕はタイプFの貴重な症例で、彼にとっては(実は僕自身にとっても)貴重な研究対象だ。

 彼が言うには、僕はタイプFが社会的に適応できたほとんど唯一のケースだという。

 僕らも政府から見たら、犯罪に走った失敗事例ということになると思うが、社会適合性からしたら、成功といってよいだろう。

 なにしろ、ぶじに成人を迎えられることさえ、めったにないそうだから。

 ニセコやリナを見ての通り、恐怖心が欠落すると、道徳の欠落を生んだり、自己を防衛する力を弱らせたりする。

 なぜ僕が生きてこられたのか。それなりに人間らしく暮らしていられるのか。それがサルースと僕にとっての研究のテーマだ。


 この手紙の大部分は、記録からの抜粋だ。これを読めば、僕がどんな人間なのかは、おおよそ理解してもらえると思う。


 僕に研究所で与えられた正式な名前は、君も知っての通り、フリギドゥス・プラーナという。

 両親が僕を悟と呼ぶのは、人の心を悟ることができるからだろうと勝手に思っていた。あるいは、昔話に出てくる『サトリ』という名の化け物のことかもしれないとちらっと思ったりもした。

 幼いころの僕は、それこそ化け物みたいに扱われていたから。

 少し大きくなって父に聞くと、煩悩のないお前は悟りを開いた仏様のようなものだからだと、笑って答えた。

 今の僕は悟りの境地とはほど遠いが、この呼び名は嫌いではなかった。

 父は僕をそう呼ぶことで、僕は失敗作ではないと自分に言い聞かせていたのかもしれない。


 ちなみに『こころ』の呼び名は、母の好きだった本から取ったものだ。君の時代でも有名なはずだから、まだ読んでいなかったら読んでみるといい。

 むかし読んだ時には、友情と愛情の間で迷って後者をとった挙句、両方とも踏みにじった、つまらない男の話、としか思えなかった。

 今読み返すと、人の心はそう簡単に割り切れるものではないのだ、と分かる。僕はこころにずいぶん無理な注文をつけてきたのだろう。


 僕の最初の記憶は、人工子宮にいたころにさかのぼる。

 誰も信じてくれないが、僕はレコードを再生するように、当時の会話を思い出すことができる。

『タイプF?』

『……われわれで育てることができるのか? 三十年前の事例では……』

『……それはそれで貴重……』

『……危険……行動が読めない……爆弾を抱えるような……』

 言葉の意味は分からなかったが、外側で会話する人々の気持ちも感じ取ることができた。

 一言でいえば、不安。

 僕に対する異端児への不安が、僕の感じ取った初めの感情だった。


 赤ちゃんのころの僕は、かなり特異な子供だったようだ。

 泣いたり笑ったりが、他の赤ん坊に比べると極端に少なかった。恐い顔をしても泣かない。あやしても笑わない。人ともあまり目を合わせない。

 そんな子供をどうにかまともに育てることができたのは、それまでのいくつもの失敗や試行錯誤のお陰だ。

 世界で初めてレイモンド症候群――感情を持たない子供が生まれたのは、二三世紀のことらしい。その子が五歳にして三歳の子供を焼き殺すというショッキングな事件が起きてから、どう育てればこの病気の子供たちを、人間らしく――少なくとも人間っぽく――成長させることができるか、研究が進められてきた。

 甘えることもない、怖い顔をして叱っても恐がらない子供に、善悪を区別させるべく、脳に装置を埋め込んで軽い電気ショックを流す方法がとられた。

 感情がないと言っても、快、不快の原始的な感情はある。言うことを聞いた時には快適で、破った時には不快だと覚えこませることができる。

 お陰で僕も、物心つくころには、そこそこそれらしくふるまえるようになっていた。

 手のかからない<良い子>だったといってもいいかもしれない。


 僕が四つになると、両親は、非人間的だという理由で、装置を取り外させ、言葉でのしつけに切り替えた。

 周りには、反対する声も多かったらしい。

 レイモンド症候群の人間には、人をだますのが得意な者も少なくない。罪悪感を持たないため、平気な顔でしれっと嘘をつく。

 幸い僕は、かなり従順な子供だった。

 こころと逃亡生活を始めるまでは、規則を破ったことはほとんどなかった。


 一度、先生に施設内の掃除を申しつけられたことがある。一時間後に戻ってくるから、それまでこの部屋の掃除をしていて。そう言われた僕は、先生がいずれ戻ってくるものと思って掃除を続けた。

 先生は戻ってこなかった。

 翌朝、僕がぴかぴかに磨きあげた廊下で眠りこけているのを見つけた先生は、仰天した。

 一緒にいた若い先生は泣きそうになり、保育室長は目を吊り上げ、手伝いの先生は、薄気味悪そうに僕を見ていた。

 僕は別段何も感じなかったが、大人のおろおろする様子から、自分が無駄なことをしたと悟って、次からはもう少し要領よく仕事するようになった。


 それから少しして、こころが生まれた。

 こころもやはり特異な子だったが、ひとつ違っていたのは、両親も、研究者達も、こころの誕生を心待ちにしていたということだ。

タイプAが生まれるのは、世界で初めてで、みんな、こころのやることなすことに注目した。

 誰にでも同調してしまうこころは、赤ん坊のうちは誰からも愛された。相手が可愛いと思うと寄ってくる。鬱陶しいと思うと自然に離れていく。目の前の相手と同時に泣いたり笑ったりするので、すぐに仲良くなれる。

 これは僕にとっても勉強になった。相手が微笑んだら微笑み返す、にらんだらにらみ返す、あるいは先手を打って、良い結果を引き出したい相手にはこちらから微笑んで見せる、そうするとどうやら人間関係がうまくいくらしいことが分かった。

 相手がリスナーでも、この戦略は有効だった。

 たいていの人は、こちらが怒ったふりをすれば、怒っていると錯覚する。

 僕の中途半端な演技は、時には相手を戸惑わせているようだったが、僕は気に留めなかった。

 僕にとって重要なのは任務だけで、任務遂行に支障をきたすほど嫌われなければ、どう思われようが構わなかった。

 リスナーの大半は、僕のことを恐れていた。こっちは向こうの気持ちが読めるのに、向こうは僕の気持ちが読めない。お陰で、研究所の人間が、僕の邪魔をすることはほとんどなかった。


 こころとだけは相性が悪かった。

 こころにとって、人間というのは、始終感情を垂れ流しているもので、僕はこの世でただ一人、『人間に見えない人間』だった。

 僕にとっても、こころの行動は理解不能だった。次から次にいろいろな人に感化されるので、こころが本当に考えていることが何なのかさっぱり分からない。

 二人きりになってからも、こころの気持ちは本当に読みにくかった。甘えてきたかと思うと、次の瞬間には、憎しみをあらわにして叫ぶ。

『兄さんなんかに何が分かるの!』

 こころに振り回される時の僕の気持ちは、一言でいうと<不快>だった。不快といっても、怒りや嫌悪といった激しい感情とは違う。

<良い感じ>と<嫌な感じ>が僕の抱く唯一の感情らしきもので、残念ながら、こころといると、<嫌な感じ>を受けることのほうが多かった。


 僕らは六つのころから、研究所の外で仕事するようになった。

 僕は十二になるまでに、十五人の潜在犯罪者を捕まえた。これは、研究所始まって以来の快挙だったらしく、タイプFの有用性を再評価してもらえたようだ。

 こころは感情が安定しないので、外に出されることは少なかったが、もっと特殊な任務を与えられた。VOICEのメンバーを探し出すという大命だ。

 感応力の強いこころは、VOICEをかなりのところまで追い詰めた。

 だが、最後の最後でへまをした。


 こころが、アウディを取り逃がしてしまった時、僕は、ああ、やっぱり、と思ったものだ。

 みんなの信奉していたタイプAの神話が崩れたのは、僕にとっては良いニュースだった。

 だが、僕が、そう話すと、母はとても悲しんだ。

 そして、こころを連れて逃げるように僕に頼んだ。

「こころはこのままでは処分を受けることになる。お願い、一緒に逃げて」

 今まで『正しい』と信じていた規則を破るように言われたので、僕は混乱した。

「こころはとても特別な子だから、こうした任務につけてはいけない。大切に守らなくてはならない」

 母はそう言い聞かせた。

 僕は完全に納得したわけではなかったが、両親を説得できるだけの理由も見つけられなかった。

 それから、『こころを守ること』が僕の任務になった。


 こんな難しい任務は他になかったと思う。

 いつ追っ手がくるか分からないのに、こころはとにかく言うことを聞かなかった。

 甘やかしても脅しても、まるで手に負えない。

 家の中に閉じこもっているのは嫌だと駄々をこねるので、学校にも行かせた。人と深く関わらないと制限つきで――なのにこころは約束を破って、友達を連れてきた。友達――つまり君だ。

 ずいぶん割に合わないことをさせられていると考えたものだが、途中で放り出してしまえばというと、僕にはそれもできない。

 僕は、人の期待に沿って生きることに慣れすぎてしまって、母の言葉を裏切ることはできなかった。

「こころのことは、大切に守らなくてはならない」

 両親はいつもこころのことばかり気にかけていた。僕が任務で成果をあげても、母はあまり喜ばなかった。

 母は僕に、こころのような人間らしい心を持ってほしかったのだと思う。

 その気持ちは、今なら僕にも分かるのだが、当時の僕にはどうしようもなかった。


 四百年前に君と別れた後、僕はこころと、生まれた時代に戻ってきた。

 サルースに、基地へ来て欲しい、安全は保障するし、最大の賓客としてもてなすと誘われたためだ。逃亡中にも、VOICEにはずいぶん援助を受けてきたので、僕の考えでは願ってもない話だった。

 こころは嫌がったが、僕は強引にこころを連れ帰った。VOICEの支援なしにこころをあの時代で守り通す自信はなかったし、いつまでも逃げ続けていても先がないと考えていた。

 VOICEが僕らを歓迎してくれたのは、言うまでもなく、タイプAとタイプFを使って<逆流>を起こしたかったためだ。

 こころは能力を強化する施術を受けて、僕と<逆流>の実験をしたが、うまくいかなかった。こころは実験に協力する気がなかったし、僕との相性も悪かった。

 じきに、こころは部屋に誰も近づけなくなった。色々な人の感情が流れ込んできて、耐えられないというのがこころの言い分だった。

 それから脱走を図った。この辺りは、君も知っての通りだ。


 施術を受けて君と旅を始めてから、初めに記録した感情は『感動』と『孤独』だった。

 そう、テラのライブを聴いたときのことだ。

 声が響き始めたとたん、世界が違ってみえた。

 モノクロの世界に、色があふれ出したような。

 ステージまではずいぶん遠く、感情を感じ取れる距離ではない。なのに、声やメロディそのものから、彼女の気持ちが流れ込んでくる。

 そのうち、周りから、演奏を聴いた人達の共感が一緒に立ち上ってきた。感応力のない人々は、こうやって感情を伝え合っていたのだと気づいた。

 あまり夢中になっていたせいで、君がいなくなったのに気づかなかった。

 気づいた時に、僕がどれほど動揺したか――ほとんどパニックになったと言ってもいいと思う。たかが、、、感情に引きずられて、一番大事な任務をおろそかにしたのだから。

 君の感情を読み取るまで、自分が何を感じていたのかすら分からなかった。自分の感情は、他人のものより見えにくい。君の感じたとおり、僕は君に何があったかとても心配していたし、自分に腹を立ててもいたのだが、それが、すでに君に親しみを感じていたためなのか、君を見守ることが任務だと感じていたためなのか、今でもはっきりしない。


 人の作品から感じる感情は、距離を置いているぶん、もう少し分かりやすかった。

 あの晩、部屋で一人きりになってから、もう一度曲を聴いてみた。

 テラの人生が、歌声の中から立ち上がってくるようだった。サビから終わりにかけての、すすり泣くような歌声が、どうにも耳から離れない。

 五分三十秒の音楽で、なぜこれだけのことができるのか。

 その日は、一睡もせずに、最近の曲からクラシックまで、何十も聴いた。

 ほとんど何も感じなかったものもあれば、鳥肌が立ったものもある。

 映画を何本か早送りで眺め、美術館を見学し、小説を長編短編織り交ぜ四つ、読んだ。

 それまで僕は、物語にはあまり興味がなかった。架空の人間がどうなったところで、それは想像の世界の話でしかない。論文は得意だったが、感想文は苦手だった。

 なのに、その日は、登場人物がすぐそばにいて――というより、登場人物の中に入り込んで――人生を追体験しているように感じた。


 君は責めるかもしれない。こころの安否が知れないのに、よく映画なんて見ていることができる、と。

 だが、できるだけ色々体験してこいというのがサルースの指示だったし――何より、僕にはどうしても止めることができなかった。

 今までにどれだけのものを見逃してきたのか。こうして感じているものが、一週間の限定つきなら、一秒でも長く感じていたいと、本当にそう思った。

 僕に与えられた時間は、あまりにも短い。

 見たことのない美しい世界が、目の前に投げ出されて、なのにほとんどが、手の届かないところにある。


 翌日には、見逃してきたものがその程度では済まされないことがはっきりしてきた。

 君が家族を思い浮かべる時の、ほんのりした温かさは、僕がそれまで感じたことのないものだった。

 君は僕を見て、この人は誰からも愛されたことがないんだろうかと、感じたと思う。

 その通り。

 僕は愛し方はおろか、愛され方も分からなかったから、逃亡生活中のこころに、人と感情的なつながりを持たないように強要した。こころの安全を守るため。

 だが、価値観が揺らぎはじめると、見えているものが反転する。見ているものは同じなのに、前景と背景が入れ替わる。

 感情が、生きるための手段としてでなく、それ自身が価値のあるものだとしたら?

 僕がこころに与えてきたのは、生き地獄でしかない。

 こころにとって、十年間のうち君と過ごした数ヶ月は、唯一の温かい思い出、宝物みたいなものだったに違いない。


 君が気を失った時、僕は心配した。今度は『心配』しているのだと、自分でもはっきり自覚していたし、そうやって人並の感情を持てるのは良いことだと思い始めていた。

 君の健康を守るのは、任務でもあるし、君個人を気にかけることでもある。理性と感情の導き出した結論は一緒だった。

 だが、ニセコがつかまった時、確信がもてなくなった。

 任務で必要な以上に、君を気にかけすぎたのではないか? そのせいでニセコを犠牲にしたのでは?

 君の存在は、病院を出るころには、ずいぶん大きなものになってきていた。

 君は僕の名前を、愛情を込めて呼んでくれた。

 僕も君を、妹の友達や任務の対象としてでなく、僕個人が直接関わった一人の人間として見ないわけにはいかなくなった。

 もし、君を守ることが、任務に反するようになったら?

 もしもアウディに、君を見捨てるように命じられたら、僕はそれに従うべきなのか。

 何が正しいことなのか。感情と理性の出す結論が、矛盾することが起きたら、どちらを取ったらいいのか?


 ビッグ・マザーの思い出に触れた時、僕は生まれて始めて哀しみを感じた。

 誰にも愛されていたことがないと思い込んでいたことが、どれほど浅はかな間違いだったかを知った。

 彼女の愛情を、僕はたしかに読み取っていたはずなのに、まるでその価値を感じ取れていなかったのだ。

ようやく気づいた今となっては、感謝も愛情も返すことができない。

それ以上に哀しかったのは、ビッグ・マザーを殺した人間が、おそらく僕に近い――少なくともタイプEであると予想していたからだ。そうでなければあのセキュリティは破れないだろうと確信していた。

もし僕がビッグ・マザーを殺せと命じられていたらどうしていただろうと考えた。

むろん、一度は断ったろうが、納得のいる理由があれば引き受けたかもしれない。

 葛藤することも、嘆くこともなく。

 それは正しいことなのか?

 この頃には、だいぶ幅を利かせ始めていた『感情』の出した答えは、ノーだった。

 ビッグ・マザーや、こころや、君を殺せと命じられたら、僕は断らなければならない。世間一般から見て、どんなに正当に見える理由があろうとも。

 なぜか?

考える必要さえない。考えただけでもぞっとする――それがまっとうな人間の感じ方だ。

 僕は、少なくとも、感情が消えるまでの間は、自分の感情を甘やかしてやることに決めた。


 君にそそのかされたとはいえ、ネバーランドで子供たちと遊んだりしたのはそのためだ。

 少しでもいいから、誰かと心のつながりを持ってみたかった。

 僕は、聖人街の<静かな人々>と少しだけ似ている。

 人と情緒的なつながりを持てない、という点において。

 彼らは、感情を持っている。ただ、感情のつながりを恐れてつながることができない。つながりたい、という願望は、心の奥底に秘めているのに。

 彼らは僕には身近に思えて、だからこそ逆につながりやすかった。

 こころのことを教えてくれた少女と、僕はボールや砂絵を通じて、ほんの一、二分の間だけ、友達になった。


 リナやニセコに会うまで、僕はビッグ・マザーを殺した人間を決して許さないつもりだった。

 けれど、彼らに対して、僕に何が言えたろう。

 彼らはつまるところ過去の自分と変わらず、彼らが僕に仕返しをしたのは、むしろ正当な理由がある。

 そう思うと、僕はこころに会うのが怖くなった。


 船の中で、僕は、こころがどんなにひどい状態だろうが、受け入れるつもりでいた。

 世界中を敵に回しても、僕だけはあいつの味方になってやろう、そう決めていた。

 だが、それが感情の導き出した決断なのか、感情のふりをして、理性が導き出した結論なのか、分からない。

 僕は、こころが僕を憎んでいても仕方ないという気がしてきていた。自分がこころを愛しているのか憎んでいるのか、僕にはまったく分からなかった。あれほど長い時間を一緒に過ごしてきたのに、僕はそれまでこころに対してなんの感情も育めなかったのだ。

 感情を持ってから、逃亡中のこころのことを何度か夢に見た。こころが見せるのは、恨みがましい目、反抗的な目、寂しそうな目の三つだけ。

 こころが微笑みかけるのは、僕以外の人間に対してだけだった。

 おまけに、研究所の人間も両親も、こころには微笑みかけるのに、僕の上はほとんど素通りしていたことを思い出した。

 そんな人間を、どうやって愛すことができるのだろう。

 妹というだけで?


 あの時、船の中は、ひどい状態だった。

 君は自分のすることを過小評価する傾向にあるから、どれだけのことをしてくれたのか、いまだに気づいていないかもしれない。

 あの船は、船中の人間の恐怖や混乱をこころが増幅していて、リスナーにしてみれば、地獄みたいな状態だった。ニセコやクルーが恐慌状態に陥ったのも無理はないし、僕にしても、これは自分の感情ではないと始終言い聞かせないと、たちまち混乱の渦に飲み込まれてしまいそうな状況だった。

 こころの居場所に近づいてくると、今度は僕自身の不安が、こころの不安と共鳴し始めた。

 歩くごとに、見えない壁が大きくなってくる。こころの僕に対する恐れや憎しみを、ひしひしと感じる。僕の中にも同じ気持ちが育ってくる。

 君がいなければ、こころと僕が顔をあわせることはできなかったと思う。

 ドアを開けた後も、恐怖のほうが大きかった。

 理解しあえるだろうか。僕はこころと本当の兄妹になれるのか。

 こころの気持ちを感じ取ろうとした僕は、こころのほうも、同じことをしているのに気づいた。

 こころが求めていたのは、完璧な兄ではなく、自分の心で感じとることのできる兄だった。君はとっくの昔にそのことに気づいていたが、僕がそのことを実感したのは、こころと再会してからだった。

 こころは、僕と同じ不安を抱えながらも、ありのままの僕を感じとろう、受け入れようとしていた。

 不安の底にあるのは、拒絶されることへの怯えだった。

 そう、僕らはひどく怯えていた。静かな人々のように。けれど、こころの奥底では望んでいたのだ。

 分かり合いたい。

 愛されたい。

 この人の中に、愛せる部分を見つけたい。

 その気持ちに触れたとき、ふいに、稲妻のように、別の感情が立ち現れた。

 愛したい。

 他のことは、すべて霞んでしまうぐらいに強く。

 それまで感じていたわだかまりは、全部、本当に全部、どこかへ消えてしまった。

 君は、ありえない、というだろうか。それとも、当然だ、というだろうか。

 感情を持たない僕に、報われない愛情を注いでくれた君なら分かってくれるかもしれない。

 気づいた時には、腕の中にこころがいた。

 抱きしめると、同じだけの愛情が返ってきた。

 無事でよかった、と、心から思った。

 こころを暴走する兵器にせずに済んで、本当によかった。

 生きるために感じるのか? 感じるために生きるのか?

 どちらも正しいと思う。

 だが、あの時の出来事は、僕の価値観を完全に逆転させてしまった。

 断言してもいい。

 あの瞬間の、ほんの一、二分の出来事のためだけでも、人生は生きる価値がある。


 ポットで脱出した後、一人になって、前日のハプニングの記録を再開した。

 書いているうちに、ふと思った。

 両親は、僕がいつかこういう風に感じることができるのを期待して、僕にこころを託したのではないかと。

 標準以上の知性を持ちながら、タイプFのほとんどが、大人になる日を迎えられない。理由はさまざまだが、根本的な原因は人の社会とつながれないからだ、といわれている。

 だからこそ、両親は僕に、こころを守るという使命を与えたのだ。

 僕が社会とつながれるように。僕を世界につなぎとめるために。

 両親は、僕をこころに与えただけではない。こころを僕に与えてくれたのだ。

 僕が人間らしく生きてこられたのは、こころといたお陰だ。


 戻ってからも、こころと僕は言い争いをして、君に心配をかけた。

 だが、何を言ったところで、こころが叫んでいることはただひとつ。

 兄さん、私を認めて! もっと甘えさせて!

 昔だって同じだったはずだが、僕には届かなかった。わずらわしいとしか感じられなかった。

 今では、そんな風に言われると、僕もこころが可愛くなってしまって、本気で腹を立てることはできない。叱るために、怒ったふりをするのがせいぜいのところだ。

 君が真剣に心配してくれるものだから、つい笑ってしまった。

 とんだ茶番につきあわせてしまってすまない。

 ありがとう。


 あの時、僕はこころに三つの選択肢をつきつけた。

 答えは決まっていたが、こころがもし、このまま逃げよう、と言ったら、僕は喜んでついていっただろう。

『感情』の一部では、それを望んでいたぐらいだ。

 あの晩、君とこころが寄り添って眠っているのを見た時、僕は、愛しいという気持ちがどんなものか、初めて分かった。

 このまま三人で旅を続けられたら、どんなに楽しいだろうと思った。

 もちろん、ただの空想だ。

 限られた世界で生きてきた僕たちが、外で生きていける保証などない。

 僕の感情はいずれ消えてしまうし、君を元の世界に返さなければならない。

 僕の人生で、初めて愛しいと感じられた二人の人間を、安全なところに送り届けないとならない。


 VOICEへ戻る間、僕はふたつのことを考え続けていた。

 どうやったら、君を無事に元の世界へ帰せるのか?

 どうやったら、こころの身体だけでなく、心も守ってやれるのか?

 八日を過ぎても感情が消えていないようだったので、僕は小さな奇跡が起きたのだと期待し始めていた。一度栓を抜いたら、そのまま流れ続けるというような。

 それなら、今からでも遅くない。

 VOICEの危機を乗り越え、政府の監視を気にせず暮らせるようになったら、どこかへこころを遊びに連れていってやりたいと思った。

 それがかなわなければ、ただ一緒にゲームしたり、映画を見たりするだけでもいい。

 この年になった兄妹は、普通そんなことはしないだろうが、こころとの、失われた十六年を取り戻すためなら、なんでもしてやりたい。

 そしていつか両親を探し出せたなら。

 今の僕を見たら、両親は喜んでくれるだろう。

 きっと僕らは、初めて本当の家族になれるはずだ。

 その時に、言うことも決めてあった。

 こころを僕に与えてくれてありがとう。


 さて、この手紙もそろそろ終わりに近づいた。

 現実は容赦ない。

 僕は運命論者ではないが、あのフィオレが君の友達だということ、そして君をこの時代に導いてくれたということには、因縁めいたものを感じずにはいられない。

 まるで自分を試されているように感じる。

 お前は人の心を理解したのか? と。

 したつもりだ、僕なりには。

 施術のためだけでなく、君のお陰だと思っている。

 君が僕の心に寄り添い続けてくれたお陰で、僕は自分の心をよりはっきり感じ取ることができた。

 感応力を持たないはずの君が、僕が気づくよりも先に、この人は嬉しそうだとか寂しいだろうとか気づく。それで僕は、自分が感じていたことに気づかされる。

 僕にとって、この八日半は、それまでの十数年分と同じぐらい価値がある。

 本当にありがとう。


 どれだけ感謝してもし足りない君に、辛い任務を託さなければならないというのが、とても心苦しい。

 だが、本当をいうと嬉しさも感じている。

フィオレを通じて、そしてあのリングを通じて、僕らはこれからもつながっていることができる。

 感情を手放した後では、それが僕らの友情を保証する唯一の絆になるだろうから――

 君は、思春期(僕にはなかった。ぜいたくな言葉だね!)にさしかかって、小さな悩みを抱えていたようだ。

 お礼代わりに、相談にのってあげたかったが、その時間すらないようなので、一言だけ。

 君は僕らの開けた穴を、向こう側から塞いでくれる。子供から大人にさしかかろうとする一人の女性、責任感を持った人間として。

 そしていずれは、自分自身の夢をかなえ、大切な役割を果たすようになるだろう。

 陳腐な言葉だが、あえて言わせてもらおう。

 君の前には無限の可能性がある。

 君は、君にぴったりの居場所を見つけるだろう。

 僕のような人間ではなく――君が愛情を与えるに値する男も現れるだろう。

 本当を言えば、少々そいつが羨ましい。君に愛される人は、きっと幸せになるに違いないから。


 そろそろこの辺りで筆を置こう。

 あと五分。

 無様に泣いているところを見せて、サルースを喜ばせる必要もないだろう。

 もう思い残すことはない。多分スマートにお別れできると思う。

 君に心をこめてハグを。

 さようなら。君の幸せを祈っている。

===


 手紙に同封されていた包み紙には、小さなイヤリングが入っていた。見方によって、壺のようにも見え、男女の顔が向き合っているようにも見える、『ルビンの壺』のデザインだ。

 耳につけると、あのテラの声が、頭の中に鳴り響いてきた。

 それは、孤独に、気高く、自分の道を選んだテラの、忘れがたいあの歌声だった。

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