第56話 お別れの時

 それから私はこころと一緒に、悟さんの帰りを待った。

 こころは口数少なかったけれど、何も話さなくても、そばにいるだけで十分だった。一緒に過ごせるわずかな時間を、私はけして忘れないように胸の中に刻みつけた。

 しばらくして戻ってきた悟さんは、前よりもすがすがしい顔をしていた。

 いや、この言い方は正しくないかもしれない。

 あるいはこういうべきだったろう。死地に赴く覚悟を決めた兵士のようだった、と。

 サルースさんが胸に手を伸ばすと、あのペンダントが現れた。

 赤く輝くペンダントから、悟さんの体へ伸びていく光の帯を、私はじっと見つめた。

 抵抗するかのように、うごめき、のたくっていた光の蛇は、やがて次第に細くなっていった。

 光の帯が粒になり、まばらになり、最後に光が薄れて消えると、サルースは私にペンダントを手渡した。

 私は壊さないように、そっと、さくらの、一時は悟さんのものだった心を受け取った。

「どうすればいいんですか」

 私は尋ねた。

「地下室にいるVOICEの人間に渡せばいい。話はつけてある」

「分かりました。必ず届けます。責任を持って」

 そう言って、見つめ続けていたペンダントから目を離した私は、そこで初めて、悟さんの顔とまともに対峙した。

 その時の衝撃を、どう表現したらいいだろう。

 ついさっきまでそこにいた人は、そこにはいなかった。

 すぐ目の前にいるのに、この人は、急に遠くに、手の届かないところに行ってしまった。 

 悟さんが口を動かしかけて、やめた。

 何を言おうとしたか、想像がついた。

『すまない』

 私が期待しているのはそんな言葉ではないし、悟さんもそのことを知っていたようだった。

 代わりに口にしたのは、別のことだった。

「ひとつだけ、約束してほしい。今からしばらくの間、こころのことも僕のことも忘れること。君が残してきた時代の人たちのことだけを考えるんだ。余計なことを考えるとタイムリープが失敗する。万一そんなことになれば……」

 悟さんは、言葉を探すようにした。

こころが、、、、哀しむ」

 胸がズキン、と痛んだ。

 違う、傷つくようなことじゃない。

 そう言ってくれたことを、ありがたく思うべきなのだ。以前の悟さんならば、こんな言葉だって絶対口にしなかったはずだから。

 そう思いながらも、私は必死に唇を噛みしめていた。

「この子を戻す前に、記憶を消したほうがいいんじゃないのか」

 サルースが口をはさんだ。

「時空移動の途中で、余計なことを考えれば、時空の狭間に漂流することになるぞ。そうなったら救いようがない」

 私は恐怖を感じて後じさった。

 嫌だ。記憶を消されるのは、二度とごめんだ。

 この人たちのことを忘れるくらいなら、死んだほうがいい。

「待ってくれ、サルース」

 悟さんはサルースを制し、私の様子をじっと観察するようにしていたが、やがて私に一言告げた。

「ペンダントの先を半分右に回して、首からかけてごらん」

 私は言われたとおりにしてみた。

 先端を回すと、ペンダントの色が、神秘的な青色に変化した。

 首に下げると、不思議と心が静まった。焦りや哀しみや恐怖を、ペンダントが吸い取ってくれたかのように。

 この人は覚えていてくれたんだ、と、私は思った。あの船で話したことを。

 忘れたくない、と言った時の切実な気持ちを。

 そして今も、私の心を気にかけてくれている。

 いや、きっと、私にちゃんと覚えてほしいと願っているのだ。この旅で感じたすべてを。私たちの絆を。託された約束を。

「ありがとう。約束はきっと果たします」

 悟さんが微笑んだ。

「さよなら、双葉さん、、、、

 もう涙は出なかった。

 私は、元来た時代に帰る。

 私のすべきことがある世界へ――

「こころ」

 悟がこころの方に向き直った。

「はい」

 こころは神妙にうなずいて、椅子に腰を下ろした。

 悟さんが後ろに回って、肩に手をかけた。

 私の胸のうちに、川が流れるように、こころの思い描くイメージが流れこみ始めた。

 それは、三十分前よりもずっと力強く、シンプルなメッセージだった。

――私たちは、仲間。

――今までも。

――これからも。

 指輪が少しずつ熱を帯び始める。

 私は、学校の地下室を思い浮かべた。

 横たわっているさくら。暗闇の中で私の帰りを待っているさくらを。

 白い部屋の光景が、ぐい、と縮まった。

 こころの座った椅子が見る間に小さくなっていく。

 遠ざかっていく。アウディが、サルースが、こころが、悟さんが……今まで一緒に過ごした時間が、世界が。

 思い出が胸に迫り、私はぎゅっと目をつむった。

 さくらのことを考えなくちゃ。

 如月高校、そこからすべてが始まった。

 そこで、私たちは再会し、さくらを通じて、こころ達と出会った。

 こころが背中をそっと後押ししてくれるのが分かる。

 悟さんがそれを、一本の力強く太い流れにして、私に送り届ける。

 指輪をなくして、心を痛めていたさくら。

 絆だって、きっと大人になったら、私のことなんて忘れちゃう、そうつぶやいたさくらの声。

 大丈夫、私は忘れないから。

 あなたに、大切な預かりものを返しに行くから……

 頭の中に、さくらの横たわる姿が鮮やかに浮かび上がった。

 まるですぐ目の前にその光景が広がっているかのようにリアルに。

 違う、これはきっと……


 私は目を開けた。

 つむっていた目を開けた、ということが信じられないくらい、まぶたの裏でみた桜の姿がそのまま、目の前にあった。

 ひとつだけ、突然現れたように感じたのは、さくらの傍らに立つ見慣れぬ白衣の男の姿だ。

 いや、本当はきっと、初めて会ったわけではないだろう。

 だが、未来の世界に行く前にも目にしたはずのこの男の顔を、いまだに私ははっきりと思い出すことができない。何度も話してきたはずの、サルースさんの顔と同じように。

 覚えているのは、その人物にペンダントを渡した、ということだけだ。

 白衣の男は、まるでマジシャンのような手つきで、ペンダントから見えない糸を引っ張り出すようなしぐさをした。

 そこから光が現れてさくらの胸に吸い込まれていくさまを、私は息をつめて見守っていた。

 最後の光がゆっくりと消えていくのを見届けると、男はペンダントの先をきゅっとひねった。

 ペンダントにはまだ、わずかだが神秘的な光が残っているように見えた。

 その光に見とれていた私に向けて、驚いたことに、男はペンダントを差し出した。

 私は息を飲み、おそるおそる尋ねた。

「いいんですか?……」

「この子のぶんは切り離した。そこに残っているぶんは、おそらく君の感情エネルギーだろう」

 ああ、その言葉を聞いた私が、どれほどうれしかったことか。

 これは旅の思い出にとっておこう。

 いつかまた、このエネルギーを必要とする人に会える日まで。

 私は二つ目の宝物を首にぶらさげ、学校の先生に見とがめられないよう、ブラウスのボタンを上のほうまで留めた。

「では、君たちを地上まで送り届けよう」

 白衣の男の言葉に、

「え? でも……」

 私は戸惑って聞き返した。

 さくらは相変わらず、闇の中に浮いているように横たわったままだった。

「まもなく目を覚ますよ。元来たところにつけばね」

 別れを告げるように片手を上げた男の姿が、ゆっくりと下に下降し始めた。

 いや、実際には、私とさくらが昇っていたのだろう。

 男の姿が見えなくなり、しばらくして、周囲が少し明るくなったのに気がついた。

 階段の上から光が射している。

 戻ってきた。あの不思議な階段へ。私達の住む世界へ。

 懐かしい校舎の空気に深呼吸し、タイルの手触りを確かめる。

 これが私の学校。私の住む世界。

 目の前には、これから私が一緒に高校生活を送っていく友達がいる。

 私はそっと呼びかけた。

「さくら」

 目を開かないのに少し心配になって、肩に触れた。

「さくら……聞こえる、さくら?」

 そのとたん、さくらのつぶらな瞳が、ぱっちりと開いた。

「絆……?」

 瞳が私の姿をとらえるや、目がまんまるになる。

「きずなぁ……!」

 さくらが身を起こして、感極まったように私に抱きついてきた。

「来てくれたんだ。ごめんね、私ね……指輪を探しに行こうと思って……そしたらね……」

 息せき切ったように話しだす。

 それから急に言葉に詰まって、途方に暮れた様子を見せた。

 きっと記憶があやふやになってしまったのだろう。未来に行った時の私のように。

 私はそっとさくらの肩を叩いた。

「大丈夫だよ、さくら。もう大丈夫だから」

 そう言って指輪を見せると、さくらはほっとしたような、今にも泣きそうな顔を見せた。

 さくらは確かに、政府に細工されていたのかもしれない。地下室に行ったさくらに、潜在意識が何をささやいたのか分からない。

 けれど、さくらが私のために、危険を顧みず地下室へ指輪を探しに行ってくれたことは確かだ。

 一生大人になれないさくらは、いずれ私のことも忘れてしまうだろう。

 でも。

 私の友達、さくら。

 フィオレと呼ばれた女の子。

 お姉さんも、弟も、ずっと忘れられずにいて、いつの日か会えるのを心待ちにしている。

 あなたが信じて裏切られた人、あなたの宿敵は、今度はあなたに心を返してくれた。

 あなたに会えないみんなの代わりに、私がこれからあなたを見守っている。

「私、さくらの友達だから。これからもずっと、忘れないから」

 さくらは、腕の中でぐすぐすと泣き出し、しゃくりあげ始めた。


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