第60話

 私は未練がましい気持に決別する意味で、マッチの火をキャンドルに移す。マッチの臭いとロウの燃える臭いが入り混じって鼻腔の奥を刺した。チロチロとキャンドルが燃えはじめる。私はテーブルの上で腕を組んだまま凝っと炎を見る。亮太とのこれまでが暗いスクリーンに次から次へと浮かび上がってくる。すべてがまるで昨日のことのように思えた。

 泪が出てきている。何度もしばたたかせた。しかし私は泪を拭おうとはしなかった。いま目蓋に浮かんだことが泪と一緒に流れるような気がしたからだ。止めどなく流れ落ちる泪は頬を伝い、そして唇に触れる。こんなに泣いたことがいままでにあっただろうか。

 キャンドルの炎が微かに揺れて見える。泪のせいじゃなかった。思い出したようにゆらゆらと揺れるのを見ていると、まるで泪の私に何かを語りかけているようだった。何が言いたいのかわからないままゆっくりと目を閉じた。いまさら元に戻ることはできない。でも私のこれまでは決して間違ってはいなかったと信じている。亮太を好きになったことも、亮太を愛したことも、亮太に抱かれたことも……。

 キャンドルは熱い炎の下で変化しはじめている。まるで亮太と私の関係とは逆に、時間をかけてゆっくりと形を変えている。ふたたび込み上げてきた悲しみと一緒に、諦めかけていた泪が烈しく溢れた。私は顔を上に向けて頻りにこらえたが、たまらず嗚咽を洩らしてしまった。ゆっくりと目を開けると、睫毛に附着した泪の雫が、宝石でもあるかのようにきらきらとオレンジの光りを耀かせている。そのひと粒ひと粒が波の頻るごとく息づき、新しい生命を育みはじめているようだった。私はそれを胸の奥で感じた時、新しい自分になった確信をした。

 私はキャンドルの火を吹き消したあと、ふたたびベッドに潜り込む。炎を見たせいかすぐには眠れなかった。やっとことで深い闇の中にいざなわれたのは、明け方近くになってからだったが、たちまちひろげられた伸びやかな夢は、シルクのベールを被ったように柔らかで深遠だった。

 目を醒ましたときは昼になろうとしていた。充分とは言えない睡眠時間だが、久しぶりに目醒めがよかった。いつもならベッドから出るとすぐに何かが入り込んできて、水を含んだ綿を置いて行ったようにどんよりとするのだが、きょうの私は嘘のようにすべてのことを忘れられることができた。

 勢いよくカーテンを開ける。待ち侘びたかのように部屋中を白い光りが駆け巡った。窓を開けて見上げると、そこにはどこまでも青く、どこまでも果てしない五月の空があった。

 私は目を瞑りながら、新緑の匂いをたたえた空気を胸一杯に吸い込んだ。                             


                  (了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

イエロー・キャンドル zizi @4787167

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ