第30話
「ねえ、葉月、もうそろそろいい時間じゃない?」
私の言葉に弾かれたように腕時計に目を遣る。
「あッ、もうこんな時間? 話してるとあっという間だね。じゃあそろそろ行こうか」
葉月はバッグから財布を取り出し、伝票を手にするといざるようにして席を立った。
「いいの?」と私。
「いいよ。ここはあたしに任せといて」
葉月のお勧めの店は駅前の喫茶店から五分ほどだった。
通りから一本西に入ったところにあるその店は、私が想像していたのとはまったく違っていて、表にはスタンドの看板もなく、入り口のドアは重厚で、ただドアに店の名前の『焼き五郎』と書かれてあるだけ。店構えとは似つかわしくない屋号に、なぜか親しみを覚えた。
葉月は躊躇することなく、慣れた様子でドアを引いて中に入る。そのすぐあとをおどおどと不安げに蹤いてゆく。入り口のあたりは狭かったが、中に入ると、左に長いカウンターがあり、右手には衝立で区切られたテーブルが幾つかあった。
何やら店員と話をしながら葉月はずんずん奥に入って行き、中程でテーブル席に入った。
「カウンターよりこっちのほうが落ち着くでしょ?」
「そ、そうね。何回か来たことあるの、この店?」
「ううん、二回目」
「そうなんだ」
店員が飲み物を訊きに現れる。二人は申し合わせたように生ビールを頼む。
「何に食べる?」葉月は躰を乗り出して訊く。
「そうねエ、何がおいしい?」
品書きを手にしながら葉月の顔を見る。
「うん、何でもおいしいと思うけどォ、あたしはきょうオムそばの気分」
「じゃあ、あたしも同じ物にしよかな」
「オムそばじゃなくて別の物にしなよ」
「何で?」と怪訝そうに訊く。
「他のを頼んで半分ずつすればいいじゃん」と真剣な顔の葉月。
「わかった。じゃあ、お好み焼きのミックスにしようかな」
「いいね、いいね。何か他に鉄板焼きでも頼もうか」
「何にする?」
「右花の食べたいものでいいよ。そうね、例えば山芋ステーキとか、ウインナとか、ベーコンとほうれん草のバター炒めとか……」
私は葉月の顔を見て、どれも自分の食べたい物であることがすぐにわかった。
「葉月は何がいいの?」
「あたしィ、あたしだったら、ウインナかな」
「じゃあ、ウインナとバター炒めにしようか」
生ビールが搬ばれた時、葉月が四種類の料理を店員に言いつけた。
グラスを持ち上げて、「おつかれ」と言いながら乾杯をする。キリッと冷えたビールが咽喉の奥を流れ落ちてゆく。こういうのがオヤジの感覚なのかなと瞬間的に感じた。
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