第44話

 あっと言う間にジョッキが空になり、店の中を見廻したあと、小さな声で日本酒を注文した。

「亮太のこと。――なんで黙って引越ししたんだと思う?」

「ああ、彼のこと? あたしには訊いたって無理よ。でも本心を言うと、右花にはわるいけど、諦めたほうがいいんと違う? だってそうでしょ、あんたに黙って行き先も告げずに引越すなんて普通じゃ考えられないわ。もしあたしだったら、引越しの手伝いを頼むわ、人手が欲しいからね。残酷な言い方になるかも知れないけど、他に彼女がいたんじゃない?」

 葉月は、酒飲みのオッさんのように、猪口を手にした肱をカウンターについたままで鋭角的に言った。

「やだァ、そんなの」

 内心自分でも薄々感じてはいたものの、面と向かって言われるのはひどく辛いものがあった。

「そんな彼、きっぱり諦めたほうがいいよ」と葉月。

「でもォ、他人事だからそんな簡単に言うけど、私にとっては大問題なんだから――」

 私は葉月にお酌をしながら言った。まともに葉月を見られない。

「何でもいいけど、右花、飲むピッチ早くない? とてもついてけないよ、あたし」

 気がつくと、あっと言う間に目の前の料理がなくなっていた。そしてお酒も。跳び込みで入った店だったが、アタリだっただけに何か得した気分。家庭料理に飢えている私たちにとって大変ありがたい店だ。これだけオジさんたちが飲みに来るのもわかる気がした。

 少し店の空気に慣れてきた私は、主人に言って熱燗の大きいのを追加注文する。葉月は愕いた顔をして、「大丈夫?」と心配する。口には出さなかったが、正直きょうはどうなってもいいと思ってる。出汁巻きたまご、揚げ出し豆腐、もつ煮を頼んだあと、また亮太の話になる。

「だって右花の気持はわからなくはないけど、連絡の取りようがなければどうしようもないじゃん」

「そうなんだよね。携帯は繋がらないし、アパートは引越ししたあとだし、バイト先も一週間前に辞めちゃった。何か他に連絡の取れる方法はない?」

 私は九分九厘諦めていたが、冷静な葉月なら何とか名案を捜し出してくれるかもしれない、とささやかな期待を抱いた。

「そんなに彼のことが忘れられないんだったら、根気よく捜すよりないんじゃない」

 葉月は出汁巻きたまごを箸で崩しながら言う。堪えられなくなった私は、熱燗をもう一本主人に言いつけた。きょうはどれだけ飲んでも酔う気がしなかった。葉月はあきれ返った表情でもつ煮を口に搬んでいる。私も負けないように揚げ出し豆腐を口一杯に放り込んだ。

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