第53話 9
今週末で契約期間が終る。私の担当している物件の作業量もピークを過ぎ、最近はチェック段階に入っているのでほとんど残業はない。契約修了三日前の水曜日、盛田主査に慰労の意味で食事に誘われた。仕事を済ませて約束の時間に一階のエントランスホールで待っていると、盛田主査が笑顔を浮かべながら急ぎ足でやって来た。
「お待たせ、さあ行こうか」
「えッ!」
私はてっきりプロジェクトのスタッフ全員で行くものだとばかり思っていた。
「僕とふたりだとまずい?」盛田主査は真面目な顔で訊く。
「いえ、そういうつもりじゃないんですけど、てっきり他の皆さんも一緒かと思ったんです」
私はどぎまぎしながら言い訳を捜した。
「まあ詳しい話は食事しながらするとして、イタリアンレストランを予約してあるんだけど、どう?」
「はい、私は構いませんけど……」
こういう場合どう返事をしていいものか真剣に悩んでいる。
「じゃあ、この近くに結構雰囲気がよくて旨い店があるんだよ」
盛田主査はすでに出口に向かって歩き出している。ちょっと強引なところがあったが、私としてはそうされるのが嫌じゃなかった。小走りに追いつき、一歩控えた距離のままで目当てのビルまで歩いた。夕暮れの空はまだ明るさが残っている。おそらく盛田主査もこんな時間に会社を出るのは久しぶりのことに違いない。後ろ姿で何となくわかった。
レストラン階直通のエレベーターに乗る。シースルーのケージを覗く夕日が、潜んでいた影を切り取りながらついてくる。まるで置いてけぼりを嫌って必死で追いかけてくるようだった。
エレベーターは二十八階で停まった。ホールを左のほうに歩いてゆくと、正面に黒と白でデザインされたスタイリッシュなレストランが目に入った。店の名前はイタリア語で「青」と言う意味の『azzurro』と言った。支配人らしき男性に窓際の席へ案内された。盛田主査はコース料理を頼んでくれた。ワインはどちらがいいか訊かれ、私は遠慮なく白をお願いする。グラスにワインが注がれる。
「よく頑張ってくれましたね。大変助かりました。お疲れさま」
軽くグラスを合わせてワインを口に含む。透明で豊潤な香りが口中に拡がる。私でも高級なのがわかった。前菜のフォアグラのゼリー寄せに感動していた時、何かを言いたそうだった盛田主査がおもむろに口を開いた。
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