第45話

 ところが、慣れない日本酒が躰中を侵食しはじめ、私はぐだぐだになりながら時計を見ると、もう九時を廻っていた。何だかんだと言いつつ、三時間以上も飲んでいる。自分ではそれほど長く飲んでいるとは思いも寄らなかった。気がつくと、あれほど賑やかしかったオジさんたちも、ひとり帰り、ふたり帰りして、いまではいちばん奥にいかにも酒の強そうな顔をした中年のオジさんが残っているだけだった。

 勘定を払いながら、おいしかったです、と店主に告げて店を出る。この時間になっても相変わらず風が強い。強いだけならまだしも、この季節に似使わしくない鋭利さを隠し持っていた。

 急に気分が悪くなってきた。店からものの五十メートルも歩いていない。立ち止まって俯く。店ではあれほど気丈に振舞っていた私なのに、緊張感が緩みきってしまった。吐きそうな気がしている。後ろから葉月が、だから言ったでしょ、とすげない言葉を覆い被せながらそっと背中を摩ってくれる。余計に吐きそうになった。身震いをしたあとそろりと歩きはじめる。

「大丈夫?」「うん」「家まで送るよ」「いいよ、ひとりで帰れるから」「本当にひとりで大丈夫? タクシー拾おうか」「うん」

 隣りの駅だが、さすがに電車に乗って家まで帰る自信はなかった。私は、タクシーのドアに掴まりながら、ごめんね、ごめんね、と葉月に繰り返し何度も謝った。

 部屋に戻った私は、這いつくばって何とか寝室に辿り着くと、そのまま頽れるようにしてベッドに沈んだ。無意識の内に上掛けを引き寄せ、安心しきって眠りにつく。ところが、目を閉じても黒色とオレンジ色のはだらが錯綜し、不規則な模様を紡ぎはじめると、ふらふらと躰が宙に浮かんだ。段々呼吸が荒くなり、もう二度と起き上がれないような気がした。

 どれくらいまどろんだだろう、突然気分が悪くなってがばっと起き上がると、一目散にトイレに駆け込んだ。便座のフタを開けるや否や、滝のごとく胃の内容物が迸り出た。泪が出るほど苦しかった。何度も吐瀉した。しまいには空になった胃袋だが、それでも吐き気が突き上げてくる。酒の臭いと胃酸の臭いが混じって鼻腔を脱け出る。思わず身震いをしてしまった。しばらくの間便器を抱えたまま離れることもできなかった私は、気分が落ち着くまで凝っとしていた。

 朝、目を醒まして昨夜のことを思い出そうとするが、どうやってアパートまで戻ったのか、どうやってベッドに潜り込んだのか、まったく記憶にない。残ったアルコールを振り払うように二、三度軽く頭を横に振ってベッドを出た。朝の眩しい光が移り込むドレッサーに顔を突っ込むと、まったく別人の自分が顰めっ面でこっちを見ていた。私は彼女の頬を掌で叩いてやる。彼女は平然としてこっちを見ている。私は根負けしてしまい、それならいっそ彼女を奇麗にしてあげようと思った。その前に冷蔵庫からミネラルウオーターのボトルを取り出して、顔中に圧し当て、少しでも浮腫みを鎮めようとした。額、両頬、人中、顎、首筋、どこも冷たくて気持よかった。

 出勤の用意を済ませてもう一度ドレッサーを覗き込む。少しはましになったような気がする。私は丁寧に彼女を飾り立ててやると、彼女はことのほか喜んで私に零れるような笑顔を返して見せた。

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