第59話

 心を決めるまでにずいぶん時間がかかった。思い切って震える親指でボタンを押す。コール音が聞こえはじめた時、不思議と気持が底に着いた。ひょっとして着拒されるかもしれないと思った瞬間、久しぶりの亮太の声が聞こえた。やや間があって、「私、わかる?」と小さく話しかけた。亮太は黙ったままで聞いている。

「この前、部屋を掃除してたら、亮くんのだと思うんだけど、USBメモリーが見つかったの。大事な物だといけないから電話したの」

 私は、黙ってアパートを引越したこと、バイトを辞めたこと、感想ノートを二度も削除したことなどを話したかったけど、はやる気持を抑え、わざと以前のことに無関心を装った口調でゆっくりと喋った。

「ふうん」

 私は、これまで何度も試みたシチュエーションにない亮太の反応に戸惑う。

「亮くんのじゃない? もしそうだったら、言ってくれた場所に持って行くけど……」

「多分俺のだと思う。でももういいんだ。データーを消去してから棄てて欲しい。それと、もう俺に電話をしないでくれ」

 亮太は言い棄てると、一方的に電話を切った。私は何かの間違いだと思った。すぐには耳元から携帯を話せなかった。「電話をしないでくれ」という亮太の声が何度も蘇ってくる。知らず知らずのうちに泪が出ていた。なぜこれほどまでに毛嫌いされなければならないのだろう。私はどうしても真実が知りたくなって、ふたたび亮太に電話をかける。しかし、亮太は二度と電話に出ることはなかった。

 遣り場のない気持を抱えたままベッドに入った私だったが、まるでドラッグでもやっているように頭の中が冴え冴えとして眠りに就くことができない。眠ろうと焦れば焦るほど逆効果だった。右に左に何度も寝返るのだが、そのたびに枕の中から、あの亮太の最後の言葉が聞こえてくるのだった。たまらずベッドから抜け出し、腕を組んだまま俯いて部屋中を檻の中のクマのように徘徊した。

 何気なく整理タンスの上に目を遣ると、亮太のくれたイエローキャンドルが目についた。私はそれを手にすると、リビングのガラステーブルの上に置いた。硬くて渇いた音がした。キッチンの引き出しを開け、奥のほうに隠れていたマッチを探し出す。

 ガラステーブルの前に坐ると、何かの儀式でもあるかのようにおもむろにマッチを擦った。長いことしまったままだったので、湿気っていたのか、一本目はぐずぐずと軸頭の燐が崩れ落ちた。二本目もだめだった。三本目にしてやっと躊躇しながら燈った。遠慮がちなマッチの炎が仄暗い闇を部屋の隅に押しやる。

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