第19話

 久しぶりの犬丸との散歩は新鮮で、このところ長く忘れていたものだった。本当は畑に行って一刻も早く父の顔を見たかったのだが、私の気持を察してくれない犬丸は、習慣になった散歩経路を逸れることなく、思うがままに突き進んで行った。

 結局畑に行くことができなかった私だったが、今度いつ戻って来るかわからないために、ここにいる間は犬丸の思うようにさせてやろうと思った。

 帰り道、坂をくだりながら遠くに視線を向けると、坂道を赤いランドセルを背負った小学生がふたり昇って来るのが見えた。そう言えば私も昔はあんなだった。懐かしい光景に少し泪が潤んだ。

 駿河の海が貼りついたように展がっていた。蒼い海と広い空を画する水平線は、白い霞に包まれて恥らうように澱んでいた。


 一時間足らずで犬丸の散歩から戻った。まだ父たちは農作業から戻っていない。故里の空気に触れて遠ざかっていたノスタルジーが蘇ってきたのか、急に昔使っていた自分の部屋が見たくなる。跫音を忍ばせるようにして桜の木で拵えた階段を二階に昇る。懐かしい匂いが躰を包み込むようにすると、まるでタイムカプセルに乗り込んだような気がした。薄暗い廊下もそのままだった。

 廊下の突き当たりにあるドアを開けた時、五年間閉ざされていた空気が私をめがけて押し寄せてきた気がした。滅多に人が出入りしていないのが手に取るようにわかった。

 南の窓にかけられたカーテンもそのままになっている。私は色褪せたカーテンを生き返らせるように思い切り引いた。ついでに空気を入れ替えるために窓をいっぱいに開ける。影を伴った西日が部屋の一部分だけを明るいオレンジ色に染めた。

 学生時代に使った勉強机の上には受験勉強の時に世話になった蛍光灯が片隅に、正面には、中学の時にみかん畑で写したちょっと大人のポーズを見せる写真がフォトスタンドに納まっている。少し灼けて黄ばんでいた。勉強机の横には、たいした本が入ってない薄汚れた本箱が必死に重さに耐えている。

 本箱から一冊の本を取り出してぺらぺらと捲り、昔を想い出しながら元に戻そうとした時、棚の隅のお気に入りグッズの中に、一見ダルマのように見えるサンタクロースを象ったローソクが置いてあるのに気づいた。私は小学校六年生のクリスマスのケーキに載っていたサンタクロースのローソクを大事に取っておいたのがいまでも残っていた。キャンドル集めという私のコレクションの原点がここにあったことを改めて感じた。

 指先で挟んで眺め廻し、そのあとアパートに持ち帰ってみんなの仲間入りをさせてやろうと思って掌に納めた。ロウが体温で融けかかったような気がした。窓框に腰かけて外を眺める。ここからは海は見えない。子供の頃からずっと見えない。海の見える部屋が欲しくて仕方なかった――。

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