第39話

 トイレから出てきた私は、ふたたびサークラインを点けながら亮太に訊く。

「お風呂沸かす? それともシャワーだけでいい?」

「俺はいいよ」

 亮太の返事がいまいちよくわからなかったから、私は訊き直した。

「いいって、入らないってこと? だってきょう泊まるんじゃないの?」

「いや、きょうは用があるから帰る」

「ええッ!」

 私は思わぬ言葉に一瞬つまづく。亮太のほうは、これが予定の内というような平然とした顔でタバコを吹かしている。二、三口喫ったあと灰皿で揉み消すと、

「また今度ゆっくりくるから、きょうは帰るワ」

 とさり気なく言いい、おもむろに立ち上がって視線を合わせないまま玄関に向かう。拳骨で背中を殴ってやりたいと思った。せっかく週末の夜をふたりでゆっくりと過ごせると思っていたのに――。

 部屋にひとり残されてしまった私は、亮太がシャギーに遺して行った物を拭い取ると、まるで背骨を抜かれたようにちからなく壁に凭れ、重さに耐えられなくなった頭を膝に埋めた。死神に似た孤独感が足先からじわりと忍び寄ってくる。知らず知らずの内に泪が溢れ、やがて止めどなく頬を伝った。別に嫌われたわけでも、振られたわけでもないはずなのに、流れ出るその泪の意味が自分でもわからない。

 ふっと、さっきのスマホのことが脳裡を掠める。電話の相手が女性だとわかったわけではないが、その後の亮太の挙動からするとそう思わざるを得ない。細かく首を横に振った。そうは思いたくなかった。案の定、訪れた生理が情緒を不安定にしているのだろうか。猜疑と信頼が綯い混じりになって、交互に胸に去来する。

 身震いが襲った。体温までが動揺しているのか突然寒気がしてきた。その時私の脳裡に浮かんだのは、月曜からの仕事のことだった。やっとのことで決まった派遣先に風邪をひいて迷惑をかけるわけにはいかない。まだ生理ははじまったばかりだから、いまの内に躰を奇麗にしておきたかったのと、芯から暖まるにはこれしかないと思い、私は弾かれるようにして立ち上がると、バスタブに少し熱めの湯を入れる。

 バスタブに烈しく湯気が絡みついている。冷えた躰に熱さが針のように全身を突き刺してくる。両腕で胸を抱えながら顎のあたりまでゆっくりと沈んだ。ざざあーッという音と共に湯が遁げてゆく。軽く肩にお湯をかけながら亮太とのことを考える――。

 私にいけなかったところがあったのだろうか。午後からのことを順序立てて思い返すが、心に当るところはひとつもなかった。すると今度は亮太への猜疑がふたたび頭を擡げてきた。おとつい私が会いたいと言った時に前からの約束があるからと断わったのも、慌ててスマホを切ったのも、今夜私のところに泊まらなかったのも、すべてこれまでの軌道からずれている気がする。いまになって、あの時――つまりスマホを慌てて切った時、なぜ電話の相手を訊かなかったのだろうと思うのだが、私は彼を信じていたから、まさかこんなことになるとは想像だにしなかった。

 バスタブから出た私は、シャワーのハンドルを廻して髪を濡らす。足元にあったシャンプーの容器を手にし、反対の手で受けようとするのだが、なかなか思うように出てこない。容器は咽喉を掻っ切られたようにヒューヒューという悲しげな音を立てた。キャップを廻して中を覗いてみる。よくは見えなかったが、どうやら底のほうに三角になって澱んでいるのがそうらしい。髪を洗うにはとても足りなかった。流し台の下を開ければ詰め替え用のがあるのだが、面倒臭くなって容器にシャワーの湯を注ぎ込むと、烈しくシェイクしたあと髪に擦りつけて勢いよく洗った。

 ミネラルウオーターをコップ一杯分ほど飲むと、躰が暖かいうちにベッドに潜り込んだ。しかし素直に目を瞑って眠る気にはなれず、しばらく天井を見上げていた。いまこのベッドルームには淡いピンクのカーテンを濾してくる月の明かりと、ミニコンポのディスプレーに表示された青い色があるだけで、生きていることを実感させる音というものがすべて消されていた。

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