第32話

「我慢したらどれくらい読める?」

「そうね、本を開いて、最初の三行くらいかなァ。それ以上はちょっと……」

「それはそうとう重症だね。あたしもどっちか言うと本を読まないほうだけど、あたしのはただ横着なだけなんだよね。でも右花のは『小説拒絶症候群』って言うやつね」

 葉月は両手でジョッキを支えながら傾ける。

「『小説拒絶症候群』? そんな病名の病気があるんだ」

「ううん、ないよ。あたしがいま勝手に拵えた病名」

「うわあ、びっくりした。本当にそんな病気があるのかと思った」

 苦笑いを返したあと、残ったビールを飲み干す。

 ちょっとごめんねと断わりを入れた葉月は、ごそごそとバッグを探ると、緑色のパッケージのタバコとライターを取り出した。口に咥えて火を点けると、烟を深く吸い込んだ。

「うーん、でも、躰が拒否反応を起こすようじゃ困ったわね。それって最近のことなの?」

「はっきりとはわからないけど、高校卒業したあたりからかな」

 私は訊かれてすぐに思いを巡らせたが、判然とした記憶として残っていなかった。おそらく自分では気がつかないが、何か切っ掛けがあったに違いない。

「で、右花は彼のこと好きなの?」

「好きよ、大好きよ。いま私の前からいなくなったら、私死んじゃうかも――」

 私は泣きそうになった。

「なに大袈裟なこといってるの。まるで子供じゃん。でも正直なところ解決策が思い浮かばないから、宿題にしといて。いい考えが思いついたら連絡するから」

 灰皿にタバコを圧しつけながら葉月は私を見た。

「わかったわ、お願いね。……じゃあそろそろ出ようか」

 そう言いながら私は伝票に手を伸ばした。時刻は十時に迫っている。

「幾らになる? あたしの分」

「いいの。ここは私に任せといて」

「だめだよ、あたしビールいっぱい飲んじゃったしィ……」

「いいって、さっきお茶ご馳走になったし、……じつは実家から帰る時、お母さんが内緒で五万円くれたの。親ってさあ、何も言わなくっても子供の態度を見てたらわかるのかなァ。仕事がなくて収入が切れているのも、すべてお見通しみたいだった」

「そりゃあわかるんじゃないの。だって、あたしも絶対にバレないように嘘を吐いたつもりだったけど、ちゃんと知ってることが何回もあったも」

「やっぱそうなんだ。私も親には嘘吐かないようにしよっと。さあ、行こ」

「ほんとにいいの? 何かわるいな」

「いいから、いいから」

「じゃあ、ゴチになります」

 葉月はテレビ番組で観た真似をして、両手を斜め下に拡げて軽く頭を下げた。

 店の外に出る。さすがにこの時間ともなると、夜気は研ぎ澄まされている。容赦がない。露地から見える細長いコバルトの空が余計に空気の冷たさを感じさせた。

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