第16話 4

 久しぶりに静岡の実家に帰ってみようと思った。突然そう思ったわけではない。昨日亮太が帰ってたあと、ひとりになってふいに思い立った。

 亮太と一緒に部屋を出た私は、排気音が聞こえなくなるまで亮太を見送ると、なぜかすぐと部屋に戻りたくなくて、あてもないままうららかな春の陽射しに誘われるようにふらふらと歩きはじめた。爽やかな風に搬ばれて微かに花の香りが聞こえてきた。

 自販機で買った缶コーヒーを手にしたまま蹣跚まんさんと歩いていると、小さな広場が目に入った。看板には「どんぐり公園」と黒ペンキで書かれてあった。公園と呼ぶにはほど遠いそこには、すっかり葉模様になったサクラの樹が二本と数株の紫陽花、それに錆びた鉄棒とペンキの剥がれたベンチがひとつあるだけだった。

 私は人気のない広場のベンチに半分だけ腰掛けて缶コーヒーのキャップを開けた。ひとりになって思うことは、亮太のことではなく、このところ音沙汰のない仕事先のことだった。こんなことになるくらいだったら、どこかに正社員として入り込んだほうがよかったかもしれない。しかし年度が変わった四月になったいまとなっては、すこぶるタイミングがよくない。自分で自分を宥める方法を手当たりしだい物色し、その結果、まだ少しはこれまでの蓄えがあることだし、最悪は両親に泣きつけばいいと都合よく観じた。

 コーヒーを飲み終えておもむろにベンチを離れ、広場の隅まで歩いた時、誰か近所のひとが植えたのだろう、一メートルに満たないローズマリーの木が三本ほどあるのに気づいた。何気なくその葉を指先で千切って鼻先に持ってゆく。仄かな青さを湛えた清冽な香りが鼻腔を擽った。その瞬間、閃光のように実家の蜜柑畑が思い浮かんだ――。

 そう言えば二年ほど家に戻ってない。部屋に戻った私は、懐かしくなって実家に電話を入れる。母が出た。久しぶりに聞いた母の声にささくれていた胸の裡が少し楽になり、話を続けているうちに、この機会に一度戻ってみようかという気持が頭を擡げた。


 黒いキャリーバッグを引き摺りながら午前中の新幹線に乗った。静岡に停まるひかりは一時間に一本しかない。こだまで行けばいいのだが、三十分余分にかかる時間がなぜか勿体ない気がして、ついつい時間を合わせてひかりにしてしまう。静岡からは在来線に乗り換えて島田まで三十分。そこからはバスでさらに三十分。

 どこまでも澄み渡った青い空。黝く光るアスファルト道路に平行する黄色いタンポポの路。私を出迎えてくれているような潺々とした川の流れ。バスの車窓を移りゆく素朴な風景は、ずいぶんと忘れていたものだった。

 私の実家はみかん農園を営んでいて、主な収入はみかんによるが、それだけでは食べていけないからお茶と野菜を少し育てている。いまでは後継ぎの兄夫婦と両親の四人で一年中忙しく休むことなく働き続けているのが現状である。

 子供の頃、五つ違いの兄とみかん畑やお茶畑で遊んだのを懐かしく想い出した。

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