第37話

 キッチンでコーヒーカップを洗いながら夕食のメニューを考える。早く決めて買い物に行かなければいけない。きょうは亮太の食べたい物を目一杯拵えたいモードになっている。

「ねえ、夕食何が食べたい?」

 何気なく口にしたのだが、そのニュアンスが新婚の妻がハズにかけた言葉のようで、ちょっと嬉しい気がした。

「何でもいいよ」と、ぶっきら棒な言い方で返してくる。

「ぶっちゃけ、作れないものもあるけど、とりあえず言ってみて」

 私は拱手したまま亮太の前で見下ろしながら訊く。

「じゃあ、トンカツ」

 亮太は面倒臭そうに目を開き、虚ろな顔でぼそりと言った。


 結局、トンカツを拵えたことのない私は、亮太を部屋に残したままスーパーに出かけ、揚げるばかりになった豚肉を二枚、少し厚めに切ってもらって家で揚げることにした。ついでにポテトサラダとキャベツを半分、缶ビールを半ダース買ってアパートに戻った。

 部屋の前まで来た時、隣りの住人がドアに鍵をかけてるところだった。軽く会釈をすると、けばい化粧の顔に安物のオーデコロンの匂いを振り撒きながら、鼻先で挨拶をするようにして私の前を通り過ぎて行った。頭に響くサンダルの高い音だけが残っている。横にした人差し指を鼻に当てながら後ろ姿を追う。生活パターンから推測すると、どうやら夜の仕事に就いているようだ。

 そんなことを想いながらドアノブを廻した。亮太がうたた寝をしているかもしれないと思い、静かにドアを閉めた。そっとリビングに顔を覗かせた時、寝ていると思ってた亮太が愕いた表情で私の顔を見て、耳に当てていたスマホを慌てて切った。

「起きてたんだ。寝てるもんだと思ってた」

 私はキッチンにビニール袋を置きながら背中で言った。

「うん」短く返事をした亮太の声がわずかに震えているようだった。

 亮太のことが好きだったし、どこまでも彼を信じていたからその時はまったく疑うことをしなかった。しかし、慌てて切ったスマホの意味をあとになって知ることになる。

 窓の外はまだ明るさが少し残っていた。悲しい色で残っていた。

「亮くん、トンカツはウスターソース? それともトンカツソース?」

 私はキッチンから背中越しに少し大きく訊く。自分の声が部屋の中で反響した。

「どっちでもいい」張り合いのない返事が返ってきた。

 夕食が出来上がるのにそれほど時間はかからなかった。揚げたてのトンカツと味噌汁に白いご飯で食事がはじまる。ビールを飲む亮太が心なしか元気がない。あれほどちから強く、そして熱く語る姿を見せてくれたのに、いまはその片鱗もない。

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