第57話
巣鴨の駅で待ち合わせをした。この前の時よりも更に日脚は長くなっている。店の手前で私たちは顔を見合わせながら足を停める。幾ら三度目と言えども、まだ昼間の明るさが充分残されている時間に飲み屋に入るのは気が引けた。
しばらく佇んでいて、人通りが少なくなったのを見計らうと、コマネズミのように駆け出して店の戸を開けた。入ったまではよかったのだが、生憎いつもの私たちの席には先客がいた。服装からして近所の住人でない中年の夫婦づれは、おそらくとげぬき地蔵にでもお参りした帰りに立ち寄ったに違いない。飲んでる背中が遠慮がちに映った。あの角の席は、きっとこの店をはじめて覗いた客の誰もが坐る道順なのかもしれないと思った。
カウンターの中央から奥にかけて三人の常連客がすでに飲んでいる。仕方なく真ん中より少し外れた席に坐る。店主は、毎度と言いながらカウンター越しにおしぼりを手渡す。私たちは決まりごとのように生ビールを頼む。きょうのお通しは筑前煮だった。葉月が刺し身を食べたいと言うので店主に伝えると、刺し身は何がいいか訊ねて来た。ふたりがなかなか決め兼ねていると、横にいたオジさんが、いまの時季はカツオがええよ、と酒とタバコで潰したような胴間声で言った。そう言われると違ったものが頼み辛くなり、それでいいですと半ば投げ遣りの気分で注文する。
私はジョッキを手にしたまま、まじまじと葉月の顔を見る。いつもよりか飲みっぷりがいい。
「どうかした?」目を丸くして気にした。
「いや、飲み方がいつもと違うから、どうかしたのかなと思って……」
「だって、昨日も電話で話したようにィ、やっと派遣先が決まったんだもん、きょうくらいパッと飲みたいのよ」
葉月は突き放すように言った。誰にだってそういう気分の時がある。それを聞いて私はとても気持がよくわかった。カツオの刺し身が届いた。前に実家に帰った時、食卓にのぼったカツオの刺し身を思い出した。懐かしく思っていた時、突然隣りのオジさんが口を挟んで来た。
「この時季のカツオは、有名な俳句にもあるように、〝目に青葉、
オジさんは私たちに言っているのか、店主に言っているのかわからない曖昧言い方をしたあと、なぜか大きな声で笑った。
「そうなんですか」
「いまのカツオは脂は乗ってないけど、香りがいい。まさに五月ってとこかな」
オジさんは一生懸命講釈をたれているのに、葉月はそんなオジさんの話に耳を傾けることもなく、さっさと刺し身を口に放り込んでいる。
「ところでさあ、何で右花に派遣会社から電話入らないの?」
「さあ? 月曜に会社に行くことになってるから、その時に話があるんじゃないかな」
「だったらいいけど……、また一緒に働きたいよね」
「そうだね。でも向こうの都合もあるからさ、こっちがどう足掻いたってどうしようもないじゃん」
私は、葉月のいまの気持を考えると、建築事務所の正社員の話を言えなかった。
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