第17話

 前方に下車するバス停が見えてくる。人が立っていた。軋んだ音と共にドアが開き、キャリーバッグを引き摺り下ろして顔を上げると、バスを待っていると思ったのは、乗客ではなく母だった。昨日の電話ではあれだけ話せたのに、面と向かうとすぐにはまともな言葉が出てこない。母のほうが先に声をかけた。

「お帰り」

 母の声は短かった。おそらく時間の隔たりが言葉を失わせたに違いない。

「うん」

 私も同様にそれだけ口にするのが精一杯で、まともに母の顔を見ることができないでいる。

「持ってやろうか?」手を伸ばして母が言う。「ううん、大丈夫だよ」

 家まではバス停からは歩いて五分ほどである。道路を横断した時、やっとスムースに声を出すことができた。

「みんな元気? お父さんもお兄ちゃんも?」

「ああ、変わりないよ。でもこのところお父さんが歳のせいかね……」

「どうかしたの? 具合でも悪い?」

「そうじゃないけど、昔ほど無理が利かなくなったね」

 母は薄く笑いながらぼそりと言った。

 玄関が見えてきた。ひどく懐かしく思えた。子供の頃に玄関の敷居に足を取られて嫌というほど額を地面に打ちつけたのを想い出した。

「ただいまァ」

 私は誰とはなしに大きな声で帰宅を報せる。返事がなかった。振り返ると母は勝手口のほうに廻ったようだ。式台に荷物とお土産の入った手提げ袋を置いた私は、小走りになって勝手口に向かった。犬丸に会いたかった。犬丸は雄の柴犬で、近所の家に生まれたのを貰い受けた。家を空けてから二年経つが、私のことを覚えているだろうか。もうずいぶんとお爺さんになっているかもしれない。

「犬丸!」私は少し離れた位置から躰を折って犬小屋覗き込んだ。聞こえなかったのかもう一度大きな声で呼んだ。すると中からジャラジャラと鎖を引き摺る音と共に犬丸が顔を覗かせ、怪訝な面持ちで私のほうを覗う。手を叩いて犬丸を呼ぶ。やっと私に気がついてくれた。犬丸は思い出してくれたようだ。顔を少し上げ、千切れんばかりに尻尾を振りながら近付いて来た。私は思い切り頭と顔を撫でてやった。顔を近付けると、顎を使いながらペロペロと阿るように私を舐めた。

「あとから散歩に連れてってあげるからね」、と言い諾かせると、犬丸はそれがわかったとみえて、もぞもぞとお尻を降ろして居ずまいを正し、何かを訴えるように私を見上げた。

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