第43話

 私の背中をずっと見ていた葉月は、歩きながら気遣ってカラオケでもしようと無理やり誘った。とても愉しく歌える心境ではなかったが、片隅に憂さ晴らしをしたいというのもあったし、きょう一日付き合って欲しいと頼んだのは私のほうだった。

 葉月は巣鴨のカラオケルームに入るや否や、時間が勿体ないからと言って歌いたい曲を五曲ほど立て続けに予約すると、ぽんと私の前にリモコンを投げるように置いた。葉月が入れた曲はどれも烈しいリズムの曲だったが、私はとてもその手の歌を歌うモードではなかった。葉月に煽られて入れた曲は、スローなブルースだった。

 それでも二時間ほどカラオケルームにいた。その間ほとんど葉月が歌いまくり、店を出た時には声音が別人のようになっていた。

 商店街を歩きながら時計を覗くと五時半を指していた。日曜のこの時間だからか道路が広く見える。暮れなずむすみれ色に染まった空は、冷たさと暖かさが入り混じって複雑な趣きを湛えている。風が強くなってきている。

「ねえ、飲もうよ」と、肩を窄めて今度は私が葉月を居酒屋に誘う。いま徹底的に飲みたい気分に取り憑かれている。きょうばかりはオヤジのように飲みたかった。

 ただひと言聞かせて欲しかった。こんな遣り方は決して納得のできるものではない。私を避けているとしか思えなかった。

 駅の近くで居酒屋を見つけた。『庄助』と書かれた店の前の赤提灯が、風に煽られて千鳥足になっている。躊躇うことなく縄のれんを分けて店に入る。すでに飲んでる客が店を半分ほど占めていた。入ったとたん一斉に顔を向けられた。痛いほどの視線に恥らいながらL字形カウンターの隅に席を取る。空かさずはげ頭に鉢巻を締めた威勢のいい主人が注文を訊いてきた。様子を見がてらまず生ビールを注文する。店に入るまでは最初から熱燗を飲むつもりでいたが、店の空気を吸ってしまってからは勢いが消滅してしまった。お通しはイカのヌタだった。ヌタはビールに合わない。やはりこういう店は日本酒が基本になっている。

 葉月と相談をして、大皿料理の肉じゃがと筑前煮をひとつずつ頼む。そのすぐあとで葉月がおでんを食べたいと言い出した。主人がおでんは何がいいか訪ねる。玉子、大根、はんぺん、あと二種類は主人に任せた。

「ね、どう思う?」と、私は唐突に訊ねる。

「ん?」

 ビールを含みながら葉月は私の問いかけに困惑する。その仕草に一瞬話さないほうがいいのかなと思った私だったが、こればかりはどうしても訊いておきたかった。と言うよりも、このままで部屋に帰ってもどうせ葉月に電話かメールを送ってしまう。結局は葉月にアドバイスを請うことになる。だったらここで訊きたいと思った。

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