第42話

「ここまで来たんだから、とりあえず3号室の人に訊いてみる?」

「いいけど、私は訊けないから、葉月お願い」

 葉月は、仕方ないわねといった顔で3号室の前まで行くと、躊躇することなくドアをノックした。しばらくして顔を覗かせた住人と何やら話を交わしたあと、したり顔で戻って来た。

「どうだった?」

「だめ。やっぱり彼は出てったみたい。いま訊いた話によると、昨日引越して来たばかりだって。って言うことは、彼、ずいぶんと前から引越すのを決めてたんじゃないのかな」

「そうだろうか。ねえ、葉月、私どうしたらいい?」

 頭の中が真っ白になった私は、何も考えられなくなってしまった。葉月は視線を逸らしたまま何も答えなかった。

「彼のバイト先はどこ?」

 どこまでも葉月は冷静だった。私は動揺していたためにそこまで気が廻らなかった。

「巣鴨の駅の近くのコンビニ」

「だったらそこに行ってみたら?」

「そうね、そうだよね。きっとそこにいる」

 私は急に目の前が明るくなった。どうしてそこに気がつかなかったのだろう。アパートから巣鴨の駅までそれほど遠くない。知らず知らずのうちに歩く速度が速くなっている。葉月はついて来るのがやっとだった。

 店の前まで来ると、それまでの勢いがどこかに影を潜めてしまい、ガラス越しに店中の様子を覗うのが精一杯で、とても中に入る勇気がない。見兼ねた葉月が私の背中をポンと叩いて、「何やってんの?」と耳元で発破をかける。私はその言葉に意を決して中に入る。

 レジは思いのほか混雑していた。そっと首を倒してレジのほうを覗き見る。視線を据えたまま私は品物を吟味する仕草でゆっくりと場所を移すものの、亮太らしき姿は見当たらなかった。

「どう?」聞こえるか聞こえないくらいの小さな声で葉月が訊ねる。私は小刻みに首を横に振る。心臓が耳のすぐ後ろまで移動したと思うくらい大きな音で、鈍い音の鐘を鳴らす。

「店の人に訊いてみたら?」

 葉月のその言葉が、私の隠されていたスイッチを押した。レジが空くのを見計らって店長らしき人に思い切って尋ねてみた。

「あのう、この店に坂上亮太という人が働いているはずなんですけど――」

「ああ、亮太。亮太なら一週間前に辞めたよ」

 と、レジスターの中の現金を整理しながら恬淡とした口調で言う。

「えッ! 辞めたんですか? 次のところ何か聞いてませんか?」

「いや、聞いてないねえ」

 そこまで話した時、客がレジに来たので話は太刀切れとなってしまった。これ以上訊いても無駄だと思った私は、悄然としながら店の外に出た。益々理由がわからなくなってしまった。さっきまでの腹立たしさが消えて、いまでは奥知れない不安に見舞われている。

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