第2話 悪夢
今までスレンはたくさんの夢を見てきた。ズウラがでてきたり、逆にいなくなったり。空を飛んだり、底なしの泉をずっと潜り続ける夢もみた。言葉にするのが難しいものもたくさんあったが、今回の夢は輪をかけて酷い。
舞台、登場人物、展開、そして感情、何から何まで、すべてがスレンの想像しえないものだった。ただ、一番理解できないのは、妙な既視感があることだった。
□
天井はあるが洞窟ではない。ズウラが言っていた建物というものの内部だろうか。巨大な階層構造の中央は吹き抜けで、天井は森のどの大樹よりも高い。そこに太陽のような光が数個と、星のような小さな光が無数、規則的に並んでいる。壁は色鮮やかで、ずっと見ていると目がチカチカしてきそうだ。地面は森の泉の水面のように綺麗な平面で、歩くとコツコツと硬い音が鳴った。
ショッピングモールを知らないスレンには、そこを正確に形容するための言葉が足りない。ただ、まさにこの世のものとは思えない光景を前にしたスレンの一番の驚きは、
「さすが祝日、すごい人だ」
ごった返す人の波だった。その多くは群れを作っているようだった。
と、スレンは違和感を覚える。おれ、今なにか言ったか? 口を開いた覚えはない。そして「ほんとだね」と返された方を向くと、そこには黒髪の綺麗な女がこちらに笑顔を向けていた。自分が女の手を握っていることから、どうやら彼女とは連れ立っていることがわかった。「女は男よりも胸が膨らんでいる」とはズウラの言葉。夢とはいえ自分以外の人間を初めて見たスレンが彼女を女だと思ったのは、この言葉が根拠なのだが、それ以上にスレンには確信があった。なぜか彼女のことを知っている気がしたのだ。この場所も、彼女も、知らないはずなのに知っている気がする。そんな意味不明な状況におかれてスレンは彼女の顔をじっと見つめた。目を丸くしてきょとんとした表情の彼女は首を傾げた。
突如、落雷ような乾いた破裂音が一帯に響き渡る。そして一拍の静寂のあと、辺りは阿鼻叫喚の混乱に叩き落された。状況が読めないスレンは、逃げ惑う人々にこそ戸惑ってしまう。とっさに隣を歩く女を庇ったのはなぜだろうか。庇いはしたが押し寄せる人の波に飲まれ、ふたりは転倒してしまった。
スレンは落雷のあった方向に目を凝らす。何が起こっているのかを把握しようとしたのか。いいや違う。来ると、知っていたのだ。右へ左へと目まぐるしく行き交う脚の隙間から、銃を持った男が見えた。銃などという兵器を知っているはずのないスレン。太い木の枝のようなものが火を噴くたびに人間がばたばたと倒れていくのを目の当たりにして戦慄した。あれは魔法なのか?!
「逃げよう!」
スレンは立ち上がる。
「ち、チカくん……」
それはおれのことか?
「大丈夫か? 立てるか?」
彼女の手を引きなんとか立ち上がると、ふたりは魔法を乱射している男に背を向けて走り出した。ただ、すべてが遅かった。すでに男とスレンたちとの間に障害物となるものはなく、男から見ればスレンたちは格好の的でしかなかった。
ダン! と、乾いた音が一度鳴る。突然重くなる右手。嫌な予感とともにスレンが振り向くと、そこには崩れ落ちる彼女の姿があった。
彼女の胸からは血が吹き出している。男が何かを撃ち出して、それが貫通したのだろう。彼女の吐き出した鮮血が頬にかかるが生暖かさを感じる余裕もなく、驚くほどゆっくり流れる時間のなか、スレンはただただ目を見張るだけだ。そして叫ぶ。
「イノリ!!!」
叫んだのは夢の登場人物ではなくスレン自身だ。知らないはずの彼女の名を、どうしてスレンは叫べたのか。
それは、これが夢ではなく前世の記憶だったからだ。
□
「イノリ!!!」
スレンが黄昏の森で目覚めた時、傍にズウラの姿はなかった。少し肌寒いのは今が秋口だからだろうか。ひんやりとする額に手の甲を当てて、スレンは自分が汗だくだということを知った。
「今の夢はなんだったんだ……」
覚醒した今でも鮮明に思い出せる。しかし、もう《知っている》という感覚は消えた。だからスレンは夢と断じたが、それでも綺麗さっぱり忘れて、いつもどおりの朝を迎える気にはなれなかった。何かの暗示か、あるいは……。しかし自分では答えに辿り着けそうにないスレンは、ズウラに助言を求めることにした。
「ズウラなら何か知ってるかも」
ズウラは千年を生きる老狼だ。ほとんどを山奥で過ごしたが、人とともに過ごした時も短くはないらしい。この十二年間、ズウラからはたくさんのことをスレンは教えられた。森のこと、魔力のこと、そして人間のことも。彼なら何か知っているかもしれない。答えじゃなくても、そこへ至るヒントのようなものをきっと与えてくれるんじゃないか。期待と、知ることへの不安とが入り混じった複雑な思いでズウラの帰りを待っていると、ほどなくして黄昏の森の薄闇の向こうから、ほんやりと青白い狼の影が浮かび上がってくるのが見えた。
「ズウラ!」
スレンは立ち上がってズウラの名を呼んだ。
「起きていたんだね。心配したよ、うなされていたから」
「……夢を見たんだ」
「どんな夢だったんだい」
どんな、と聞かれてもスレンは舞台から登場人物にいたるまで正確に説明できる言葉を持っていない。
「ええと……たぶん建物とかいうやつの中で、でも太陽があったから違うのか? とにかく人間もたくさんいたんだ。おれも女と一緒だった。名前は……忘れてしまったけど。それで、突然魔法使いの男が手当たり次第にみんなを殺し始めたんだ」
だから語る内容は支離滅裂なものになってしまった。要領を得ないスレンの話はさしもの賢狼ズウラでも理解できなかった。スレンも何をどう伝えて良いのかわからず、困り果てた顔で、ついには口を噤んでしまった。
「ふむ……」
溜め息を吐くズウラ。具体的な内容はわからないが、どうやらスレンは人間の夢を見たらしい。そしてスレンはそれを強く意識している。ズウラにとっては、ただそれだけで告げる言葉は決まっていた。
「スレン、人間に会いたいかい?」
思ってもみなかった言葉にスレンは一瞬硬直した。ズウラはスレンをじっと見つめたまま、返事を待っている。
「わ――、わ、わからないよズウラ。あの夢はなんだったんだ。どうしても夢だとは思えなくて。人間に会えば理由がわかるのか?」
「どうだろうねえ。だが、少なくともずっとここにとどまっていても何も変わらないよ」
「……そうか」
きっかけはほんの一度見た夢だった。
その夢に誘われるようにスレンは森の外へ出ることを決意する。
あの夢の正体を知りたい。
自分の心の奥底にいるもうひとりの自分が悲痛な叫びを上げている。
その度に、胸が酷く軋むから。
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