第59話 ヘイン・ベルニール

 スレンがアニムの裏路地でジフと言い争っている頃、魔法都市アニムの北、セレベセスのさらに北方にある王都ラミアンの安宿で、ひとりの男が目覚めた。

 王都ラミアンは王国一の大都市で、安宿などいくらでもあるし、安宿に泊まる男性客もさして珍しくはない。けれど宿を利用するような観光客や行商人などとは一線を画す剣呑さが男からは感じられた。ベッドから身体を起こし、寝癖のついた灰色の髪をクシャっと掻き上げれば、閉じた窓の隙間から漏れる光によってオレンジの瞳が鈍く光った。寝不足なのだろう、彼の目の下には酷い隈ができていた。顔の前に垂れ下がる灰色の髪を見て、男は舌打ちする。


「ちっ、胸糞わりい……」


 脳裏に浮かぶのは白髪の少年。自分の計画を台無しにした憎むべき敵だ。同時に、強大な魔法使いという恐るべき相手でもあった。



 カロア村付近の森でスレンを討ち取ろうと盗賊たちを率いていたエンハスは、前方で響いた轟音に驚き空を見上げた。すると今まで見たこともない惨状が目に飛び込んできた。星も月も姿を隠した暗黒の夜だったのに、唐突に太陽が現れたのだ。焼け焦げる手下たちの悲鳴を聞いてエンハスは一瞬で理解する。


 オレたちは勝てない、と。


 だがそれで逃走するほど彼はお利口ではなかった。町娘から憧れられるほどの優男でありながら、粗暴な強面から恐れられるには、それなり以上の暴力が必要だった。それを身につけるために尋常ならざる鍛錬を積んできた。正面から魔法を受け止めることはできなくても、魔道師を殺す方法ならいくらでもある。数に物を言わせて押し潰せないというのであれば、それを陽動に、自ら敵の背後に回り込み、首を掻っ切るだけだ。


 だが、それもあっけなく失敗してしまう。

 本来、盗賊などの身軽な戦士は、対魔道師戦を得手とする。攻撃手段に詠唱という長大な予備動作を必要とする魔道師は、どうしても奇襲や近接戦への不得手が致命的な弱点となるからだ。だから戦では後列から敵戦列を圧倒的火力でもって蹂躙するという運用がとられているのだ。だが今、敵は一人。悍ましいほどの火力で前衛を食い止めてはいるが、そこに手を取られている以上、背後に回す余力など無いはずだ。無いはずだったのだ。だが、敵は魔道師でありながら、自分よりも遥かに高い身体能力を有していた。見上げるほど高く跳躍された時、エンハスの決断は早かった。すでに八割が死傷した手下たちを見限り、彼は戦場から逃げ去ったのだった。


 行き場を失ったエンハスは、道中の適当な村で適当に路銀と衣類を奪い、一路大都市アニムを目指す。アニムを目指したのは仕事を求めてだ。当然、陽のあたる真っ当な仕事ではない。奪うこと殺すことで生計を立ててきたエンハスに、そのような働き方はできなかった。


 数日後、アニムに行き着いたエンハスは、あの戦いで盗賊たちが全滅したという噂を聞きつけた。さもありなん。エンハスの感想はたったのこれだけ。団長という立場や盗賊団に対する愛着も執着も無かった。エンハスにとって盗賊団は金を稼ぐ装置で、団長という立場はそれを動かすスイッチでしかなかったから。自分の命とは比ぶべくもない。


 大きな街には大抵、闇仕事の仲介屋が存在する。噂伝いに仲介屋に辿り着いたエンハスは、そこでひとりの男と出会った。いかにも怪しいローブを被った男だ。しかし顔を見せた茶髪の男は、第一印象とは対照的に、筋骨逞しく歴戦の勇者を思わせる風体だった。とてもこんな暗闇に仕事を依頼しに来るような人物とは思えない。エンハスが思わず羨んでしまうくらい、自分とは天と地ほどかけ離れた存在なのではと卑屈になってしまうくらい、彼は眩い存在だった。そんな光の勇者は、腕利きの暗殺者を探していた。暗殺の仕事はしたことがなかったけれど、エンハスは二つ返事で引き受ける。報酬が莫大で、さらに全額前払いだったからだ。成功報酬も追加で出るともなれば、断る手はなかった。


 仕事は、やたらと臆病で傭兵を山ほど屋敷に駐留させている富豪の暗殺。富豪は汚いことも平気でしていたため恨みを買うことも多かったらしい。情報はこれだけで、後は全て自分で調べろと言われた。エンハスは勘づく。これはテスト。依頼人はこの仕事を通じてオレを試そうとしているのだ、と。


 試されることに憤りはなかった。なぜなら試験があるということは、つまり『この仕事の先に、さらに大きなヤマが待っている』からだ。

 仕事を達成した日、報告のために訪れた酒場で彼は、光の勇者にある人物を紹介すると言われた。予想通りの展開にエンハスは思わず笑みを溢した。


 数日後、彼は勇者とともにある城を訪れる。通されたのは四面を冷たい石壁に囲まれた手狭な部屋だ。密会にはもってこいだろう。件の御人を紹介されたエンハスは、そこで勧誘と依頼を受けた。


 とある組織への誘いだ。エンハスには彼なりの信念があった。目標を達成するために金を稼ぐ彼だったが、そのためには手段を選ばない。ただ、組織の考え方には迎合できなかった。だから勇者の傘下に入ることはなかったが、紹介された御人からの仕事は受けることにした。当然、報酬は破格。試験のそれとは比べるまでもないほどに。


 報酬の額は仕事の難易度に直結する。「話を聞けば必ず受けてもらう」と散々脅されて、それでも話を聞いたエンハス。暗殺の標的は、シフォニ王国の東隣にあるイニピア王国の第一王子だった。つまり第一位王位継承権保持者だ。それはそれは、確かに報酬も破格となるだろう。王国南部の盗賊を束ねていた非凡な青年だったが、今日まで、エンハスが深い眠りにつけたことは一晩たりともなかった。



 王子は外交のために王都ラミアンを訪問し、滞在日数は八日間。暗殺の日程はエンハスに一任されているが、すでに六日が過ぎていた。


 事前にもたらされた情報では、幾つかの茶会を巡り、シフォニ王国の第一王子と会談、晩餐会を経てパーティにゲストとして出席するというのが本日の王子の日程だ。王城の見取り図は頭に叩き込んだ。ラミアンの市街地も隅々まで覚えた。逃走経路の確保は万全である。とはいえ、エンハスはこの仕事を請け負うにあたって、自分の人生はここで終わるだろうと予感していた。無駄死にするつもりはない。だから標的は確実に始末する。しかし、厳重な警備を躱して逃走するなど不可能だ。たとえ逃げおおせたとしても、二度と太陽の下は歩けなくなるだろう。裏世界の住人である彼の、手前勝手なカタギへの未練を、この依頼は断ち切ったのだった。


 彼には生きる目的があった。



 彼は最初から盗賊だったわけではない。エンハスという名前も偽名だ。彼の本当の名前は、ヘイン・ベルニール。もともとベルニール家という名士の長男だったヘインは、六歳の頃、実家の没落とともに身売りに出された。売られた先での屈辱的な扱いに耐えきれず、ついに飼い主を殺害したのが十一歳の時。ノカという街に流れ着いたヘインは物乞いに身をやつしていた。没落してもなおベルニールという家に誇りを持っていた彼は、生きるためでさえ盗むことを拒絶し、そのために食事にありつけない日も珍しくなかった。だが、そのような生活が長く続くはずもなく、ヘインはあっという間にやせ細り、頬はこけ、肋骨は浮き出るようになった。

 餓死寸前の彼を救ったはひとりの女だった。彼女はカーシャと名乗った。まだ温かい焼きたてのパンを貰い、なんとか一命を取り留めたヘイン。彼女に名前を聞かれたヘインがぶっきら棒に「ノア(ない)」と答えたら、それから彼女はヘインのことをノアと呼ぶようになった。


 カーシャは見るからにどこかの家の使用人だった。ノアが「遣いで買ったパンで施しなんてして大丈夫なのか」と尋ねると、彼女は「バレないように少しだけ」と言って微笑った。こうして、しばらくカーシャから施しを受ける生活が続いた。


 よく見るとカーシャはいたるところに包帯を巻いていた。服の袖口やスカートの裾に隠れて気づかなかったけれど、何日も顔をあわせることで気がついたのだ。尋ねると彼女は「私、おっちょこちょいだから」と笑って誤魔化した。

 ある日、カーシャの頬に打ち据えられた痕があって、どうしても気になったノアは、いつものように施しを受け取った後、気づかれないように彼女の後を追った。カーシャが入っていったのは街一番の豪邸。彼女はノカの市長のメイドだったのだ。


 ただの使用人ならばあんなに傷だらけになるわけがない。ベルニールの屋敷の使用人たちも、あんな傷を負ったことは一度たりともなかったと、もともと名士の息子だったノアは、疑念を抱いた。


 ノアは夜まで待ち、敷地に忍び込む。ある部屋から怒鳴り声が聞こえて、不審に思ったノアが壁越しに覗き込むと、豚のような男がカーシャを縛り上げたうえに、バラ鞭で痛めつけているところだった。男は服を着ていたがカーシャは全裸だった。彼女の身体には服の上から見た以上の数の痣が、胸や腹部、背中、太ももに浮き上がっていて、鬱血も酷く、酷い有様だった。

 豚男の怒鳴り声が家の外まで漏れていたが、子どものノアでは理解できない内容だった。


 部屋の灯りが消え、男の怒号が止むまで、ノアは耳を塞ぎ目を瞑ってその場から動くことができなかった。


 後から聞けば、彼女の包帯はあの豚男――市長の所有物だと示す目印のようなものなのだとか。他の使用人にも同様の包帯が巻かれているそうだ。


 アカデミーなど公共の施設に従事している使用人は、そのほとんどが契約によって雇用されている。しかし、私人のもとで働く使用人たちのなかには、カーシャのように何らかの理由によって従属を強いられているケースも少なくなかった。



 次の日も、その次の日もカーシャはいつもと変わらずノアにパンを分け与えた。いつもとかわらない笑顔だった。だが、その太陽のような笑顔の向こうには、見るに堪えない虐待の日々が隠されていたのだと知ったノアは、その日から笑うことができなくなってしまった。そして力を求めるようになったのも、この時からだった。


 最初は木の枝を短剣に見立てて鍛錬を続けた。剣ではなく短剣だったのは、比較的安価だったからだ。二本だったのは単純に一本よりも強いと思ったからだ。


 十五歳のとき、ノアはノカの荒くれ者の誰よりも強くなっていた。そこで彼は、満を持してカーシャを奪い取るために、仲間と市長の屋敷を襲撃する計画を立てた。しかし仲間に裏切り者がでたせいでアジトが傭兵団に攻め込まれ、計画は断念せざるをえなくなってしまった。ノカにいられなくなったノアは、裏切り者を殺し、街を出る。

 そして名前を変え、盗賊団に入り込み、力と金を蓄えるようになったのだ。全ては市長からカーシャを買い取るために。

 『エンハス』というのは裏切り者の名前。どんなに辛いことがあって挫けそうになっても、けっして憎悪の火を絶やさないために。この名を呼ばれるたびにエンハスは、己の内の激情がいまだ健在であることに安堵するのだ。


 エンハスは暗殺依頼を引き受ける際に、勇者と御人にある条件をつけた。


「暗殺は絶対に果たす。だからオレが逃げ切れずに死んだら、ノカの市長からカーシャという使用人を買い取り、そして普通の生活を送らせてやってほしい」


 と。

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