第93話 古き者

 私はエルベストルの廃城で気を失い、目覚めたら見知らぬ廃村にいた。魔法を使って逃げ出そうとも考えたけれど、ロープを噛まされていて詠唱することができなかった。

 きっとスレンは懸命に私を探してくれているだろうと確信していた。

 彼はもう一度、いいえ、何度だって私を見つけるだろう。

 だからこそ、何もできないことがとても悔しくて、そんな無力な自分が嫌で、彼を苦しめるだけの存在だというのならば、いっそ――。

 そう思うのは、私が弱いからだろうか。


 しばらくして私はグロワ砦という古い山城に移された。

 聞けばお祖父さまは戦に負けたのだとか。

 セレベセスに撤退し体勢を立て直すことさえできないほど大きな損害を受けたのだろうか。

 この小さな砦では、再起も図れないだろうに。

 これからどうされるおつもりなのだろう。

 すぐ殺さないということは、まだ私に利用価値を見出しているということなのだろうけれど。


 治癒の魔法……か。


 と、講堂の方が騒がしい。何かあったのだろうか。


「スレン?」


 呟いた言葉は冷たい石の壁に反響して呆気なく消えた。

 真っ先に思い浮かんだ名を呼んでみたけれど、どこかでそんなはずないと思う自分もいて。

 立ち上がって真っ暗な部屋を出ようとするが、手が拘束されている状態では上手く立つことができない。

 壁に寄りかかりながらなんとか立ち上がると、足元に転がっている石ころに躓かないように、ゆっくりと、すり足で部屋を出た。


 部屋の扉はもうとっくに朽ち果てている。

 見張りの騎士もどこかへ行ってしまった。恐らく騒ぎを聞いて駆けつけたのだろう。

 角を曲がるとようやく光が見えた。

 壁に手をついてバランスを保ちながら、足場の悪い廊下を光に向かって歩く。


「ここは私が食い止めますゆえ、閣下はお逃げください」


 出口に近づくと、ジフ・ベルディアージの声が聞こえてきた。

 誰かと話しているようだ。


「逃がすものか!」


 スレンの声がして、早鐘を打っていた私の胸は、ドクンと大きく脈打った。

 思わず足を止めたのは恐れたからではない。エルベストルの廃城でスレンの手を取ってから、もう悪夢は見なくなったのだから。

 ただ鼓動が五月蝿くて、痛かっただけ。


 私は再び歩きだす。 


 優しいスレンは、きっと気を揉んでいるに違いない。

 だから私はここだと、姿を見せて安心させてあげたかった。


 もうあと一歩。

 私は光のもとへ出た。





「こちらを見よ!!」


 ジフの怒号に反射的に反応したスレンは大きく目を見開いた。


「ヨルヤ!」


 公爵は嘘を吐いていた。ヨルヤはこの砦にいたのだ。スレンが孫娘に懸想していると知り、彼女に至る情報源としての価値を自分に付加するために。それによりスレンが講堂全体を焼き払うような大規模な魔法を使えないように仕向けたのだ。

 ヨルヤがここにいる。それさえわかれば公爵には用はない。スレンの頭の中から逃亡した公爵の存在は一瞬にして消し去られた。


「スレン……!」


 ああ、名を呼ばれただけで、声を聞いただけで、こんな状況だというのに安堵し、愛おしい気持ちになるのは不謹慎なのだろうか。


 スレンは驚きのあまり目を見開いた。自分でも治まりがつかないほど感情が波打っている。


「ジフ! ヨルヤを放せ!」


 ジフがヨルヤに触れていることさえ許せなかった。

 ヨルヤは手枷を嵌められ、彼女を捕らえるジフの手にはガントレットが嵌められている。これではヨルヤの魔力への干渉も不可能だろう。そもそもジフは魔法が使えないから、通用するかもわからないけれど。


「姫君を返してほしくば、王子らしく剣で勝負したまえ」

「王子?」


 物語の定番など知らないスレンは眉をひそめた。


「ふん、王子ではなく、猿のほうだったか。先程の戦いは見世物としては見応えはあったが」

「どっちでもいいさ。おれはヨルヤを助けたいだけだ」


 本当は、言いたいことが山ほどあった。そのほとんどは取り留めのない非難だけど、それは紛れもなくスレン自身の激情で、つまりヨルヤへの想いだった。だがそれを言ってどうなるというのか。今はその時間すら惜しい。


「ならば構えよ。軽口ももう終いだ」


 ジフはヨルヤを後ろに投げ捨て、愛用のロングソードを両手で構えた。すでに敵はジフと騎士が数名のみ。今ならば魔法で一掃できるだろうか。

 いいや、とスレンは心の中で首を横に振る。魔力の通り道が限られた講堂内では、強力な魔法を使えばその予兆を察知されてしまうだろう。かといって貧弱な魔法はジフには通用しない。小細工はなしだ。スレンもまた、エストックを構えた。



 戦場にあって今この瞬間だけは驚くほど静かだった。誰かのチェーンメイルのリングの擦れる音か、息遣いが聞こえるだけ。皆、固唾をのんでふたりを見守っている。調査隊の騎士たちも、公爵配下の騎士たちも、この一騎打ちが事実上の最後の戦いだということを悟っていた。


 突如、講堂を支配していた静寂が乱れた。アプローチでの戦いを片付けたマルルダ伯爵が駆けつけたのだ。周囲の緊張が一瞬緩まり、その空気の変化が見えぬ合図となった。


 動いたのはスレンだった。目にも留まらぬ突進はスレンの脚力だけによるものではない。風の防壁の反発力。そして一陣の追い風。風に乗ったスレンの刺突はジフの心臓を捉える。だが、届くことはなく、胸元に至る前に妙技によって逸らされてしまう。ジフは剣を戻さずそのままの勢いで回転させ、鍔際にてスレンの首を落とそうと企んだ。だがスレンも鍔で受けとめ、回避した。

 スレンはジフの頭上を通過する。その時、彼は魔法を放った。


 魔力を集めている時間はない。けれど、自分の魔力を使った魔法は詠唱を必要とする。ただ、それは属性を変えようとするからだ。属性を変えなければ詠唱の必要はない。スレンは魔法を放つ。身体には生命属性の魔力の他にも、もう一つの属性が混在している。それは水。


 すれ違いざまに放ったスレンの魔法。手の肉を突き破りスレンの血管から直接生成された真紅の氷柱。それはジフの首すじを穿ち、喉に風穴を空けた。


 断末魔も、呻き声さえなく、湧き出る血をみっともなく泡立てることもなく、赤き獅子は前のめりに崩れ落ちる。

 マルルダ伯爵の到着に目を奪われていた者にとってはあまりにも唐突で、呆気ない幕切れだっただろう。

 ようやく戦いが終わった。いや、正確にはまだ公爵が残っているが、ジフという事実上の実務指揮官が失われたことで、公爵軍はもはやその機能を喪失したと言えるだろう。歓声が上がって然るべきだ。だが、静寂を破って勝どきを上げる者はいなかった。そんななか――


「………………スレン」


 小さな小さな幼い声が講堂の石壁に反響した。


 緊張の糸が切れ倒れ込むスレンに駆け寄り、ヨルヤは血だらけの手を懸命に握りしめた。


 この手に私は救われたのだと、小さな勇者の温もりを感じながら彼女は唱える。


「五番の神イルスよ、七番の神ルートよ、どうかお慈悲の賜らんことを。我が魔力に御力の加護を与え、此の者を癒やし給え。健やかたらんことを切に」


 若葉色の光がスレンの手を包み、それはやがて全身に至る。身体中の小さな切り傷も癒え、気を失っていたスレンの浅い呼吸は、やがて穏やかな寝息に変わった。

 死闘があったことなど嘘のような幸せそうなスレンを見て、ヨルヤは今にも泣き出しそうになった。

 初めての嬉し涙に戸惑いを隠せないヨルヤ。大勢の視線に気がついて、なんとか感情の氾濫を抑えようとするが思うようにいかず、ぼろぼろと涙が溢れ出した。ついには嗚咽を漏らして泣きじゃくってしまうが、ひとつだけ、

 とめどなく頬を伝うその涙は、とても暖かかいものだった。







 舞台に描かれるような演目でもなければ、吟遊詩人が歌う物語でもない。現実はすべからく薄味で、終わりなど往々にして呆気ないものだ。どんな野望も、終えるときは、それはもうみっともないものだ。


 グロワ砦からの追手はない、ベルディアージが上手く機能したようだ。一時はそう安堵したファーロラーゼ公だったが、砦でスレンとジフの決闘に決着が着く頃、彼は再び窮地に陥っていた。


「貴様、正気か?」


 公は突きつけられた短剣の持ち主を睨みつける。


「実の孫娘に異端の聖女を演じさせ続けたお前が正気を説くってのか?」


 だが短剣の持ち主は公爵の問いかけを鼻で嗤った。


「貴様には十分な報酬を払ってきたはずだ!」

「……もう、そんなのはどうだって良いんだ」

「なに?」


 公爵は、青年には懸想していた女がいたことを思い出す。


「そうだ、貴様、ノカの女はどうした。そやつを買うために金を欲していたのだろう。ノカに出向いた際に果たしたのではないのか」

「……」


 沈黙は答えだ。公爵は青年の願いが叶わなかったことを悟る。


「振られたか? それとも売られたか? いや、その目は違うな、まさかすでに死んでいたか?」


 青年はなおも沈黙を続ける。図星を察した公は下卑た笑みを浮かべた。


「間に合わなかったのだな。哀れなやつ。なんと惨めなことか!」


 公のわざとらしいほどの笑い声を、青年は黙って聞いていた。顔に貼り付けた無表情の裏に、煮えたぎる憤怒を押し殺しながら。

 青年自身、わかっていたのだ。公爵が悪いわけじゃない。悪いのはノカの市長だけだということを。だからこれはただの八つ当たり。強いていうならば、利用する側への復讐だろうか。


 青年がもう一本の短剣を抜くと、公爵も慌てて剣を構えた。そして不敵に嗤う。


「言っておくが、儂はセレベセスの騎士団長ぞ。最前線こそ退いたが、実力は今なお衰え――――」


 だが、彼の言葉は最後まで音になることはなかった。

 そして青年は深い森の中へ消えた。

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