第22話 スレンの願い事

 アカデミーで騒動を起こしたスレン。しかしヘズモントの研究室から戻ったアターシアから説教はなかった。自分が説明を忘れなければこんな面倒事にはならなかったと、アターシア自身が一番良くわかっていたからだ。だが対策は必要だ。

 そこでふたりは三つの約束を交わした。


 一、アターシアの許可なく魔法を使用しないこと。

 一、アターシアの許可なく研究棟から出ないこと。

 一、身体を清める時以外、常に衣類を着用すること。


 如何に研究狂いのアターシアでも血の色は赤だ。研究に無心になり、人間社会の常識をスレンに教えそびれたことを悔いていた。もし忘れていなければ、このような約束をしなくても良かったかもしれないのに。特に一番目はスレンにとって辛い制約となるだろう。呼吸をするように、四肢を動かすように、スレンの生は常に魔法とともにあったから。


「とにかく、おれは魔法を使わきゃ良いんだろ?」


 ぼうっとして、心ここにあらずのスレンは生返事を返してくる。


「……簡単に言うけどねえ」


 アターシアは苦い顔をする。自分が失念した結果、スレンにそのツケを払わせる結果となってしまった。正直、余計なことをしてくれたという思いはあるが、それを口にする資格が自分にはないと彼女は自覚していた。アターシアにしては殊勝だろうか、しかしそれくらいの分別は彼女にもある。


「とにかく、大きな事件にならなくてよかった」


 机の上を片付けながらアターシアは場の空気を切り替える。いつまでも落ち込んでいても仕方がない。せっかく大事にはならなかったのだから。


「さあ座って。今日は魔力の属性について話を聞かせて頂戴」


 アターシアがスレンに椅子に座るように促す。しかしスレンはそれに応じず、テーブルの傍に立ったままアターシアをじっと見つめた。テーブルの上を整理しながらスレンが座るのを待っていたアターシア。けれど、いつまでも向かいの椅子が埋まらないので不思議に思った彼女はふいと顔を上げた。


「……なに?」


 付き合いは長くないが、いつになく真剣な表情をしたスレンがそこにいた。


「アターシア」

「ちょっと待って!」


 広げた手を突き出してスレンを制止するアターシア。何を言うつもりなのかわからないけれど、そこはかとなく嫌な予感がする。少し逡巡した後、それでも聞かないわけには行かないのでアターシアはゆっくりと手を下ろした。


「……なに?」




 スレンがアカデミーに来て、まだ一日しか経っていないが、それでも彼を驚嘆させるには十分な時間だった。スレンが読書家なら、異世界に迷い込んだようだと形容するだろう。木の根が横たわる凸凹の山道は、整えられた石畳か、あるいはふかふかの絨毯に変わり、今まで当たり前えだった裸も、ここでは許されない。そして何より、スレンがもっとも関心を持ったのは、同年代の子どもたちがたくさんいたことだ。カロア村ではほとんどが大人で、子どもはほんの数名だったから。


 スレンは覗き込んでいた窓を明け、屋根によじ登る。塔のずっと上まで行って見下ろせば、目に映るアカデミーの全景のなかに、窓から見えた集団以外にも、たくさんの子どもたちを見つけることができた。向かいの建物の窓にも、その建物と隣の建物をつなぐ廊下にも、また別の建物に向かう道にも、そこかしこに黒いローブ姿の子どもたちがいる。特に真っ平らな地面に足首くらいの背の低い草原が広がる区画には、身体の指を全部使っても数え切れないくらいの人だかりがあった。彼らはアカデミーに通う学生というやつだろうか。ほど近くの渡り廊下に同い年くらいの少年を見つけたスレンは、いてもたってもいられなくなって、屋根の縁を蹴ったのだった。 



 スレンが声をかけたのは五組の生徒たちだった。その誰もが別々の反応を示した。一番最初の少年は驚きつつも大笑いした。次の少年たちはなんと魔法を使っていた。その後も逃げられたり、逆に追われたり、彼らの様々な表情が、反応が、若葉から零れ落ちる雨水が朝の陽の光を反射して輝いているように、キラキラと光って見えた。スレンにはそれがとても眩しくて、手を伸ばしたくなるような気持ちになったのだ。


 スレンは何もわからなかった。アカデミーに通うということが何を意味しているのか。アターシアに迷惑をかけるだろうことは予想できたが、その度合いのほどはわからなかった。もしかしたらとんでもないことなのかもしれない。けれど手を伸ばすくらいはしてもいいんじゃないか。いいや、あの煌めきを見てしまえば、手を伸ばさずにはいられなかった。自分もあの輪のなかに入れたら、どれだけ楽しいだろうか。



 まっすぐにアターシアの瞳を見て、スレンは力強い口調で言う。


「アターシア、おれもアカデミーに行きたい!」


 今さっき決めたばかりの約束とは何だったのか。アターシアが、スレンと自分を守るために設けたものだが、スレンがアカデミーに通うことになれば少なくとも上二つは白紙に戻る。アターシアは、スレンに社会常識を覚えさせようとしていた。そうすれば如何に野生児のスレンでもアカデミーで生活していけると。しかしあくまでもそれはアターシアの監視下にあっての話。アターシアの手の届かないところで野放しとなったスレンが巻き起こす騒動の規模は、きっと今日の比ではないだろう。いくら教育したとしても、身体に染み付いた癖や習慣は、そう簡単に抜けるものではない。時間が経てばスレンとて文明人になれるだろうが、それでは遅いのだ。そしてアターシアにとっての一番の問題。それは彼女の研究に付き合う時間が減ってしまうことだ。


「だめよ」


 スレンにとっても予想される答えだった。


「ちゃんと言いつけは守るから」

「そういう問題じゃないの。マリの命と引き換えにアンタは私に何を差し出した?」

「……」


 それを言われると辛い。スレンはしゅんとして、すっかり大人しくなってしまった。


「意地悪ね」


 くすりと微笑ったのは、隣でふたりを見ていたアキュナだ。


「仕方ないでしょ。そういう約束なんだし」

「良いんだアキュナ。ズウラが言ってた。こういうの、ワガママっていうんだ。アターシア、今の聞かなかったことにしといてよ。えーっと、なんだっけ魔力のゾクセイについてだっけ」


 一息にそう言って、スレンは先程促された椅子へ座る。口調や態度にわざとらしさを感じるが、野生児のスレンに嘘を吐くための演技などできるはずもなく。それがわかっているからこそ、魔道師と騎士は彼を少し哀れに思った。とはいえそれがスレンの願いを叶える理由にはならない。ただ、アカデミーへ通わせるメリットを考えるくらいの気にはなる。


 アターシアは考える。


 今後、スレンが大きくなった時、アカデミーの魔道師という箔が有るのと無いのとでは、彼の扱いに大きな差が出てくるだろう。スレンがもたらす情報は、シフォニ王国に、いや、レギニア全土に絶大な影響を与えるだろう。有益なものか害悪となるか、それはその時にならないとわからない。もしかしたらアーグ教が崩壊するかもしれないし、シフォニ王国がレギニアの覇権を握る――いや、違う。そんな小さな話ではない。魔法が異常な発展を遂げるのだ。もう魔法という言葉すら当てはまらない代物になるかもしれない。その時、スレンがアカデミー出身の魔道師なら、王国も正式に彼を宮廷に招くことができるだろう。けれど違ったなら、神の教えに仇なす者として葬られるかもしれない。スレンなら迫る異端審問官の手から逃げることも、また撃退することも可能だろう。しかし人として生きることを選んだ彼は、それを望むだろうか。


 そしてもしアカデミーに入学させるなら、タイミングは今が一番望ましい。なぜならアキュナの弟子であるスレーニャがルニーアクラスの騎士科に所属しているからだ。見知った顔があればスレンも心強いし、アターシアも多少は安心できる。

 研究時間はどうだろうか。王族のように、全寮制のアカデミーでも特別な事情があれば例外的に通学が許されている。スレンを例外にするためには金貨を積めば良い。もちろんスレンの借金で。そして休日に研究を手伝わせれば、研究時間は確保できる。

 ただ問題は、今までの想定以上にスレンを教育しないといけないことだ。それでも貴族の振る舞いや考え方を完璧に身に着けさせるのは不可能だろう。


 まあ、私も平民だったし、無作法があれば平民だからと言わせておけば良いか。


「アターシア?」


 急に黙り込んだ飼い主をスレンは覗き込んだ。ふと、彼の肩に手が置かれる。見上げるとアキュナが口に人差し指を当てて口を噤むような仕草をしている。それに従ってスレンは黙ったまま飼い主が顔を上げるのを待った。




 幾ばくかの時間。長いような短いような沈黙の後、スレンの飼い主はゆっくりと顔を上げた。


「……わかった」


 短い一言を受け、思わずスレンはガタッと音を立てて腰を浮かす。それを手で制して、アターシアは続けた。


「でも、条件がある」

「条件?」


 アターシアは頷いた。


「アカデミーは全寮制だけど、アンタは今まで通り研究棟に住むこと。それとアカデミーが休みの日は私の研究に付き合うこと。アカデミーではスレーニャの助言をちゃんと聞く事」

「スレーニャ?」

「カロア村で私たちの他にふたりいたでしょ? そのちっこい方よ」

「ああ……」


 スレンはハキハキした金髪の小さい騎士を思い出す。もう一人は黒髪の魔道師だった。


「背の高い方もいるのか?」

「ヨルヤはアカデミーの授業の一環でついてきてただけだから、直接私たちとは関係ないわ」

「そうか」


「――それと、これが一番重要ね」


 脅すように前置きをしたアターシア。スレンはゴクリと喉を鳴らした。


「これからアンタを教育するけれど、それから絶対逃げないと誓いなさい」


 短く言い放ったアターシア。だが、どんな無理難題を突きつけられるのかと覚悟していたスレンは、肩透かしをくらった気分になった。


「それだけ?」


 スレンは貿易都市フィアレンゼでミザリから常識の訓練を受けた。確かに厳しく辛いものだったけれど、逃げ出すほどのことはなかった。


「ミザリから聞いたけど、フィアレンゼで社会のことを教えてもらったんだってね」

「うん」

「じゃあ、どうして今回の騒動は起こったの? みんなちゃんと服を着てるって教えられたはずだけど」

「それは……」


 スレンは今回お咎めなしだ。なぜなら教育を失念した自分に責任があるとアターシアは考えているからだ。彼女も、ミザリからある程度の常識は教えてあると聞いて油断していたのだろう。だが認識が甘すぎた。言葉が通じるからか、魔法が使えたからか、出会った時に服を着ていたからか。


「ちょっと考えが甘かったんじゃない?」

「……ごめんなさい」


 事件を起こしたことについて叱りつけることはないが、ミザリの教育で変われないのなら、もっと厳しく教育する必要がある。


「入学は認めたけれど、私が大丈夫だと思えるようになるまでは許可しないからね」

「わ、わかった」


 いつのまにかアターシアの表情が険しくなっていることにスレンは気がついた。その顔は、これから行われるであろう特訓の厳しさを物語っていた。

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