魔道師スレンと宿命のディストピア

ふじさわ嶺

第1話 狼に育てられた少年

 例えば、朝目覚めた時。太陽の光が届かない深い森の夜明けはとても冷えるから、やっぱり起き抜けは焚火を起こして身体を暖めたい。そんなときは赤色の魔力を集めるのだ。掌でぎゅっと握りしめ、それから拾ってきた枯れ枝に放せば赤々と炎が点いて、冷たくなった肌を温めてくれる。身体が暖まったら腹が減る。そしたら狩りだ。


 例えば動物を狩る時。まずは獲物を探すために高い木の枝に登るんだけど、力だけじゃ疲れるだけだから、こんな時は自分の身体の内にある魔力を使うんだ。背中から腰、腰から脚を繋げるように意識して、それぞれの場所の魔力を順番に力に変えてやると、身長の何倍もの高さにある枝に飛び乗ることができる。そこから見下ろせば野兎くらいならすぐ……ほらいた!


 獲物を見つけたらいよいよ狩りだ。けど仕留めるにもいろいろ方法がある。例えば青色の魔力を使った方法。青色の魔力は水を作ることができるんだけど、少し工夫をすると氷にもできるのだ。

 しっかりと獲物に狙いをつけて、石を投げるように手を振り上げる。本当はこんな動作必要ないんだけど、こうしたほうが命中率が良い気がする。魔力を集めて固めると、手の周りが急速に冷えて、やがて何もない空宙からパリパリと音が鳴りだす。獲物を射るときは先の尖った棒が便利。出来上がりを想像しながらさらに魔力を集めていくと、掲げた手のすぐ傍に指の大きさくらいの氷柱が現れた。そしたらそれを野兎の狭い額に投げつければ、今日も無事、飯にありつけるという具合だ。









 巨大な山脈の裾野、そこに寝そべるように広がる深い森のさらにその奥。数千年を生きた大樹が意思を持ち始めるような、そんな秘境にひとりの少年が棲んでいた。

 白髪と灰色の瞳は彼から存在感を奪い、真っ白い肌がそれを助長している。髪と瞳の色は生まれつきだが、肌は深い森で住んでいるために陽の光をほとんど浴びてこなかったことが原因だろう。儚げで幻想的な外見だが、それに反して表情はたくましく、活き活きと瞳を輝かせている。彼の名はスレン。十二年前、まだ乳飲み子だった彼は、森の外れに置き去りにされて以来、ずっとこの場所で生きてきた。

 スレンの塒は巨大な森林地帯の最奥とも呼べる場所だ。太陽の光がほとんど届かないせいで、海底のように薄暗い。あまりにも魔力が濃いために、空気に溶けきらない魔力が溢れ出し、緑色の光となって蛍のように辺りを漂っている。仄暗いのか仄明るいのか、距離感の覚束ないこの場所を、少年は《黄昏の森》と呼んだ。


「ただいま、ズウラ」


 自我も芽生えないような幼児期に拾われ人里を知らずに十二年も生きてきた少年が、人の言葉を話せるのはひとえに育ての親のおかげだろう。


「おかえり、スレン」


 ここにはスレン以外の人間はいない。我が仔の帰りを迎えた声の主は、ズウラという大狼だ。長いあいだ魔力の濃い場所に棲んでいたためか、身体の大半を魔力に喰われてしまっている。収まりきらない魔力が溢れ出て、毛先から青白い魔力の光が零れおちている。ぼんやりと光る不思議な大狼は、大樹の根本にゆったりと寝そべっていた。

 狼も、千年を生きるようになると知性を得ることもある。長い歳月のなかで世界に満ちる魔力によって知性を獲得し、古狼は賢狼へと成就した。ズウラはただの一匹で、今日までスレンを育て導いてこれたのもその御蔭だ。


「獲物は取れたのかい?」

「ああ、この通り」


 スレンは右手にさげていた野兎を掲げた。それを見てズウラは微笑ましそうに目を細めた。


「スレン、魔力の扱いにはだいぶ慣れてきたようだね」

「へへっ、まあね」


 スレンは腰を下ろし、獲物を置くと得意げに指を鳴らして焚き火に火を点ける。

 黒曜石の石包丁を使い、慣れた手つきで兎を解体していく。適当な厚さに切った肉は、自作した竿に細い蔦を使って吊るして焼く。こんがり焼き色がついても、中まで火が通っていないことがあるので、表面を削いで少しづつ食べなければいけない。言葉同様これもズウラが教えた。


「ふー、食った食った」


 スレンはズウラのもふもふのお腹にもたれかかった。


「こらこら、食べカスが毛につくだろう。昼寝するなら泉へ行ってからにしなさい」

「おっと、はーい」


 ズウラは狼だが綺麗好き。三百年前か、それとも五百年前か、とにかく言葉を話すようになるよりもずっと前に食べることをしなくなった。身体の大部分が魔力になってからは、大樹の根本から動くこともほとんどない。森の外に捨てられていたスレンを拾ってきた当初は、あちらこちら走り回って世話を焼いていたのだけれど。

 ズウラに指摘されたスレンは、身体に勢いをつけて起き上がる。手早く火の始末を終えて、


「じゃ、いってきます」


 と、立ち上がった。



 スレンが目指している小さな泉は黄昏の森の外にある。外の森はまだ木漏れ日が差し込むくらいの隙間があって、葉がスレンの白髪に淡い輪郭の影を落としている。ちらちらと見え隠れする太陽に灰色の目を眇めながらスレンは、足場の悪い山道を軽やかに進んだ。

 しばらく歩くとすぐに泉に到着する。光は届くが風は届かない。だから水面は驚くほど静かで、対岸の景色が色まで綺麗に映り込んでいる。そんな湖面に爪先を浸けて波紋を作る。


「冷たっ」


 どれだけ火を起こせても、身体能力を強化できても、氷柱を作り出せても、地下から湧いたばかりの水は冷たいものだ。それに――

 スレンは上を見上げる。泉によって木々が途切れたところだけ、ぽっかりと穴が空いたように空が見えた。もうすっかり高くなった空に、秋の訪れを知った。水も冷たいはずだ。

 なんだかんだと騒ぎながらもスレンは、泉に入って身体を清める。拭くものなんて何もないから、起こした火に当って身体を乾かすのだ。





 飛び道具で獲物を仕留め、刃物を使って肉を捌く。食べるときは火を通すし、身体が汚れれば水浴びをする。黄昏の森を出るときは「いってきます」と言い、戻れば「ただいま」と言う。ただひとつ、全裸という点を除けばスレンは十分に人間だった。誰ひとり他の人間を知らないスレンが、勝手にこんなふうに育つわけがない。それもこれもズウラがスレンを人間として育てたからだ。人間はどうしたって人間だと、千年間、その身が魔力に喰われてもなお生き続けた古狼は考えていた。だから森の外れで捨てられていた赤子を哀れだと思い、スレンと名付け育て始めた時から、いずれ別れの時がくるだろうと覚悟をしてきた。そしてその時にスレンが人間として人間の中で無事に生きられるようにと、知識と力を与えたのだ。服を着る習慣は、どうしても教えることができなかったけれど……。



 夜。小さな身体を我が身に寄せて丸くなって眠るスレンを見て、ズウラは「まだ早い」と判じる。同時に、いつまでも先延ばしにしていてはこの子のためにならないと考える自分もいて、堂々巡りのすえ苦笑する始末。可愛い我が仔を心配に思うなんて何百年ぶりだろう。もうとっくに忘れていた感情を思い出させてくれたスレンを愛しく思わずにはいられない。


 しかし、スレンの運命は唐突に動き出す。それはふたりの別れを意味していた。


「う……うう…………」


 懐から呻き声が聞こえて、ズウラの耳がピクリと反応した。浅い眠りから目覚めたズウラは心配そうにスレンを見つめた。


「うああ……どうして…………こんな……………………………………イノリ!」


 どうやらスレンは悪夢にうなされているようだ。怪我や病ではなくてほっとするズウラ。ただ、だからといって何かできるわけではない。だからせめて、スレンが寒くないようにと、そっと寄り添うズウラだった。

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