第30話 魔法実技

 アルトセイン・メイオールは賢い子どもである。それゆえ、今日も溜め息を吐いていた。視線の先には野外での授業だというのに他クラスからの見学者たちが列をなしているのが見える。授業の邪魔さえしなければ、そして自身の成績に余裕がありさえすれば、他クラスの授業の見学が叶う。アカデミーは貴族の学校だ。王族も通う。当然、子どもたちが成長すれば爵位を継ぐことも少なくない。だから学内は社交界さながらの人間模様を映し出すこともある。見学制度は、生徒間の交流機会をある程度公平に保つため、学園側が多くの貴族たちの要望に沿って設けたものだ。ただ、ことアルトセインにとっては自分への嫌がらせとしか思えない制度だった。


 アルトセインは賢い子どもであるが故に溜め息を吐く。自分ひとりでは現状を打破できないことを知っているからだ。


 だが、諦めたわけではない。もしかしたら、このどうしようもなく億劫で憂鬱な毎日を変えられるかもしれない。その可能性を見つけたのは、つい数週間前。そしてその数週間後の昨日、その可能性が自分の前に再び現れた。これを逃す手はない。


 アルトセインは賢い子どもだから縁を生み出すにはドラマが必要だと知っていた。物語上での偶然の積み重ねは、運命だと解釈されることがしばしばある。そしてその偶然とやらは恣意的に生み出すことができると、アルトセインは知っていた。


 さて、正体不明の変態とどうやってお近づきになろうかと苦悩するなか、彼が同じクラスに編入してきたのは思いがけない幸運だった。席が隣になったことも。加えて、始めて会ったときは全裸だったが、今は普通に制服を身に纏っていた。どうしてあのとき裸だったのか知らないが、正直、アルトセインは胸をなで下ろす思いだった。


 ともかく、どうやって偶然を装いドラマを演出するかを考えなければならない。誰もが利用し利用される貴族社会において、今日まで味方だった奴が、明日には敵になっている、なんてことはさして珍しいことではない。今はまだアカデミーの学生だが、これから先、ずっと味方で居続けさせるには、それこそ運命的なまでのしがらみが必要なのだ。


 次の授業は魔法実技。この授業はニクラス合同で行われる。成績の近いクラス――ルニーアクラスのペアは、王都ラミアン率いるラミアニアクラスだ。

 さて、座学はからっきしだった標的の、実技の実力はどうか。アルトセインはちらりとスレンを横目で見る。彼は真剣な眼差しをカトレア先生に向けている。


 意外と真面目なんだな。


 全裸を晒し歩き、アルトセイン自身がそれで良いと言ったとは言え、あっさりと敬語を捨てた。平民の出だということが霞むくらい恐れ知らずの破天荒。だのに今は……。


 くくっ、面白いやつ。どっちがほんとの君なんだろうね。


 最も望ましいのはスレンに貸しを作ることだ。そのためには彼が何を望んでいるかを知らなければならない。ただの平民なら地位やそれに変わる後ろ盾を欲するのだろうけれど、それはないとアルトセインは確信している。なぜならスレンには、誰かに媚びる様子が一切見られないからだ。それにアカデミーに通える時点で金銭という線は薄い。


 編入してきてまだ二日。まずは知るところから始めないとな……。


 しかしアルトセインに与えられた時間はそう多くない。もしもスレンが有用なら、自派閥に取り込みたいと考える者が他にも出てくるだろう。その者は必ず周囲を出し抜こうとするからだ。今のアルトセインと同様に。



 ルニーアクラスの担任ミミはしわくちゃの老婆だった。対照的に魔法実技の先生は若い女性だった。名をカトレア・ユンウェルという。アターシアやアキュナと同じくらいの年頃だ。特徴的なのは眼鏡とウェーブのかかった桃色の髪、そして豊満な巨乳。その巨大な胸の膨らみを目の当たりにして、スレンは震撼していた。


 アレとスレーニャのが同じ女の胸だっていうんなら、いったい女ってなんなんだ。ヨルヤだってあそこまでデカくないぞ。アターシアだって、あの半分くらいだ。どういうことなんだ、ズウラ……。


 カトレアの巨大なおっぱいに、勝手に理解不能に陥って、勝手に圧倒されて、勝手に涙目になったスレンは、遠い故郷の親を縋るように思い出す。


「そ、それでは今日からは、防壁魔法の授業をします」


 手を叩いて注目を集めるカトレアにスレンは、はっと我に返った。そして自分の置かれた状況を知り、ゴクリと唾を飲んだ。


 ボウヘキ魔法……?


 初めて聞く名前だった。防壁魔法とは、魔道師でも騎士でも、そのどちらでもなかったとしても、貴族であれば誰もが知っている基礎的な魔法だ。文字通り壁を作る類の魔法で、使う属性によって効果が別れる。


「特によく使われるのは風属性ですね。視界を塞ぐことなく、特に飛び道具から身を守ることができます。あとは反属性……相手の魔道師が炎属性の魔法繰り出してきたら、氷や水属性の壁を作るのが基本です」


 カトレアが説明する。曰く、土属性と金属性の防壁は、特殊な状況を除いて視認性が悪くなるという理由でほとんど使われないらしい。ただし防御力は特級なので、局所的に使われている。この際の局所とは、籠城戦の際に破損した城壁に一時的なバリケードを生成するとか、退却戦の殿が敵の進行を妨げる時のことだ。どちらにしても熾烈な戦況で、今年から本格的に魔法を教わるような学生が覚える必要はないそうだ。


「で、ではまず、最も基本となる風属性の防壁から。詠唱するまえにしっかりと範囲と強度を決めておいてくださいね。では詠唱します」


 カトレアは腰に挿した短杖を取り出し、前方を指して呪文を唱えた。


「第六の神フィーロよ、大いなる風を司る神フィーロよ、御手の二刀を交差させ、盾となし、我が愛しきものたちを守護し給え。求むるは虚空、幾重にも折り折りてここに顕現せよ」


 するとカトレアの短杖が指す空間に、薄い緑の膜が現れる。膜越しに見える建物がわずかに歪んで見えた。


「気づきましたか? 向こうの景色が歪んで見えるでしょう。これは風がたくさん閉じ込められているからなのですよ」


 目を擦り睨みつけるように膜の向こう側を見つめているスレンに気づいたカトレアは、ふふふと微笑い、得意げに説明した。


 なるほど、たくさん風を詰め込めば良いのか。


 スレンは風属性の魔力を集め――かけたが、咄嗟に思いとどまる。危ない危ない、またアターシアに迷惑がかかるところだった。自分の魔力を使っていないことは、もしかしたらバレないかもしれない。しかし無詠唱は疑う余地もないだろうから。


 呪文か……


「あの、先生。もう一度、呪文を教えてください」


 スレンは、防壁を解いたカトレアに再び教えを請う。文字が書けないせいでメモを取ることもできず、読めないせいで誰かとメモを共有することもできないからだ。ミミから事情を聞いていたのか、カトレアは快く丁寧に教えてくれた。


 他の学生たちが一定の距離をとって各々練習に励むなか、スレンも同じように隣のアルトセインから少し離れて短杖を握る。


「まず魔力を……」


 魔法発動の手順はいたってシンプルなものだ。まず魔力を任意の場所に放出する。短杖はそのガイドだ。そして呪文を唱えれば神の力で属性が変化し、物理現象として顕現する。

 呪文によって得られる加護はふたつ。最初に得るのが魔力の属性の変化だ。自身の魔力は命属性。それを今回であれば風属性に変化させなければならない。そしてふたつめは、力の塊である魔力を物理現象へと昇華させることである。前者はともかく、後者は、スレンにとって疑問でしかなかった。呪文に頼るようなことだろうかと。今まで呪文などなくとも自然にしてきたことで、どうやって息を吸うのか言葉で説明しろと言われても困ってしまうのと同じ、説明すらできないようなことだ。横隔膜を動かす? どうやって横隔膜を動かすというのか。


 だが前者はスレンにとっても必要な加護だった。世界に満ちる魔力を自由に使えるといっても、属性を変えることはできない。しようと思ったこともないけれど。


 カトレアの教え通り、スレンはまず魔力を外に放出する。いや、放出しようとする。瞑目し、身体の魔力をゆっくりと動かしていく。なるほど、確かに短杖があると幾分やりやすい。そして短杖の尖端からすぐ前に魔力を放出……放出……


「んんんんんんんんんんんんんんんんんんん…………ぷはっ!」


 誰も息を止めろとは言っていないだろうに。力み過ぎで横隔膜を動かすことを忘れてしまったスレンは、水面から顔をだすような大袈裟な息継ぎをした。編入試験の日から、アターシアにアドバイスしてもらい、毎日練習してはいたが、ままならないものである。もっともよく使われる魔法というだけあって、難易度はそれほど高くないのか、周囲の学生たちの何人かはすでに成功させていた。少し離れたところにいるアルトセインも、短杖の先に薄い緑の膜を作り出してた。なのに自分は……と、スレンが途方に暮れた時だ。


「魔力の放出と同時に呪文を唱え始めてみればどうかな」


 と、隣から声がかかった。アルトセインだ。スレンの隣に歩み寄った彼は続ける。


「呪文の意味を理解して、欲しい効果を想像しながら魔力を動かすんだ。二年生になれば教わることだけれど、呪文の最後の節はどういう仕組みの魔法かを示すものが多いから、属性の変化と魔法化の加護はそこで得られるよ」


 だからそれより手前の節では、じっくりと魔力を整えるのが良いらしい。加護と言う割には些か合理的すぎるが、千四百年も歴史があれば、なんだって学問になる。アルトセインが言ったのは《詠唱学》という学問のことだ。スレンが頷くと、アルトセインは邪魔をしないようにと、再び距離をとった。


 スレンは大きな深呼吸をひとつ。短杖の握る手に少し力を入れて、だが瞑目はしない。


「第六の神フィーロよ、大いなる風を司る神フィーロよ……」


 神という存在には会ったことがない。アターシアは懐疑的だが、スレンはそこまでの考えを持つほど親しみもないし関心もない。神々を拠り所とせずとも、今まで十分に生きてこれたからだ。だが、もしも神がいるのならと、スレンは希う。どうかおれに加護を!


「御手の二刀を交差させ、盾となし、我が愛しきものたちを守護し給え……」


 風の神フィーロは、一対のナイフを両手に構える若人として描かれている。彼の背中から生える翼は、何者にも縛られない奔放さを表している。だが同時に支配者という側面も持つ。彼だけではない。神々はみな、背反するふたつの側面を、いやもっと多くの、複数の顔を持ち合わせている。無風、微風、暴風と、千差万別の表情を持つように。


「求むるは虚空、幾重にも折り折りて……」


 ではこの魔法は、どのような風だろうか。カトレアの生み出した防壁は、一見静かで風など無いように思える。しかし耳をすませば、閉じ込められた風の悲鳴にも似た音が聞こえた。ひと凪の風が、何十、何百にも折り重ねられ、それが膜ほどの薄い隙間に閉じ込められているのだ。

 スレンは理解する。その瞬間、パズルのピースがパチリとハマるような気持ちよさがあって、


「ここに顕現せよ!」


 最後の節を唱えたときには、彼の前にはカトレアのものよりもふたまわりくらい小さな、薄い膜が出来上がっていた。思わず無心になるスレン。


「……でき、た」


 呟くように感動を噛みしめる。


「できた、できたできたできたぁ!」


 やがて実感を得て、スレンは声を弾ませるのだった。

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