第80話 ジヤン街道の戦い

 国境都市セリクシアと鉱山都市マ・ルテルを南北に結ぶジヤン街道で、シフォニ王国軍二万、イニピア王国軍一万五千の軍勢が対峙していた。

 またもや数で優勢を得たシフォニ王国軍。その内容も、国中から集めた騎士と魔道師がかつてないほどの規模で編入されていた。そのなかでも特にシフォニ王を安心させたのが、これまでずっと戦争に消極的だった伯父のファーロラーゼ公爵が、五千という大軍を率いて参戦してくれたことだった。


「ふははははは、イニピア王も泡を食ったことだろう!」

「あまり油断なさるなよ。まだ戦いは始まってはおらぬのですからな。窮鼠猫を噛むという東洋の諺にもあるように、土壇場になると何を起こすか分かりませぬぞ。先の戦場では、こちらの陣営から極大魔法が使用されたと、奴らは思っておるのですから」


 楽観的な甥を窘めるのはプレートメイルに身を包んだ偉丈夫ファーロラーゼ公その人。


「まあまあ、そう言われるなファーロラーゼ公よ。ニーザ平原であえて少ない兵力で臨まれたのも、相手を油断させる其方の策略だったのであろう? 音に聞こえし豪将が戦に消極的であると知れれば、さぞ敵の油断を誘うことだろう、と。そして実際にそうなったではないか。五千の兵力差はなかなかのものだぞ」

「……確かに、陛下のおっしゃる通り、敵は油断しているようだ」

「わかっておるではないか。これが笑わずにおれるものか」


 実際、兵力五千の差は大きい。ましてその五千に背後を取られれでもすれば、いかなる名将でも敗北は必至。確かに、嗤わずにはいられないなと公は密かにほくそ笑んだ。




 その日の午後、ついに戦端が開かれる。

 ジヤン街道はニーザ平原とは違い、東側がなだらかな上り坂になっている。その坂の上に布陣していたイニピア軍は、兵力面で不利に立たされていても、地理的には有利を確保していた。横長に隊列を組んだ弓兵隊が互いにジリジリと距離を詰め合う。そうすれば先に敵を射程圏内に捉えるのは当然イニピア軍の方だ。


 数千の弓兵による一斉射がシフォニ軍前衛を襲う。何百という歩兵が倒れ、焦った現場指揮官が慌てて攻撃命令を出す。それに応じてシフォニ王国側の弓兵隊も懸命に射掛けるが、坂の上のイニピア王国軍に届くことはない。

 シフォニ王国軍の弓兵隊が坂の上を射程に捕らえる頃、イニピア王国軍では魔道師による攻撃が始まろうとしていた。


 この時代、戦場において魔道師の運用について、二種類の戦術が用いられていた。ひとつは戦列魔道師による魔法の一斉発動。敵の最前線を破壊しうる強力な魔法は混乱と恐怖を撒き散らすだろう。そしてもうひとつが、敵弓兵や魔道師の攻撃から、騎士を守るための防壁の展開だ。あくまでも騎士のためであって一般の徴兵された兵士を守るためではない。だからどれだけの犠牲が前線で出ようとも、軍隊は構わず進み続ける。


 地の利を活かして戦うイニピア王国軍に、シフォニ王国軍は常に後手にまわった戦いを強いられてしまった。前列はもはや阿鼻叫喚の坩堝。勇んで突撃すればまるでファランクスのような魔法に串刺しにされ、恐怖のあまり逃げれば味方から背中を刺されてしまう。行動の選択ができたものはまだ幸福だった。足元に転がる死体に目を奪われた瞬間、自分の胸に巨大な風穴が空き、口から血を吐くまでもなく事切れる者も少なくはない。そんな死屍累々を踏みつけて、二万の軍勢は坂を駆け登った。


 坂の頂上でついに激突する両軍。本来、白兵戦に至るまでの遠距離戦は、魔法王国であるシフォニ王国の得意とするところだった。しかしイニピア軍に地の利を活かされ、重要な魔道戦力を防御に回さざるを得なくなってしまった。だが、それでも五千の兵力差はそう簡単に埋まるものではない。白兵戦に移行してもなお、シフォニ王国軍の優勢は覆らなかった。


「なかなか手間取らせおって。しかし坂を登りきった今、後は押すだけぞ!」


 押せ押せの形勢にシフォニ王国軍が勇み立つなか、イニピア王国軍の本陣の方から黒い狼煙が一本立ち昇った。


「む、何だあれは」


 シフォニ王の呟きは誰に当てられたものでもなかった。だが、王が疑問符を浮かべていれば誰かが答えなければならない。だが誰も黒い狼煙の意味を答えられずにいた。


「ははっ、飯炊きの時間にはまだ早かろう。その前に口減らしをしてやろうではないか!」


 どこか不気味に感じていても今は前に進むべきだ。不確定要素であっても確定していない以上、退却は有り得ない。シフォニ王が魔道師の杖を掲げ、声高々に前進の号令をかけたその時だった。


 本体左翼から、突如太鼓の音が鳴り響いた。

 戦場では人の声などあっさりと掻き消えてしまうものだ。いくら馬上で叫ぼうとも、飛び交う絶叫に囲まれてはとても指揮できるものではない。だから古来から基本的な号令には様々な楽器が使われてきた。太鼓、銅鑼、法螺貝、ラッパ。最低でも現場指揮官クラスであれば、号令の意味は十分に理解できる。当然、シフォニ王も。


「南に転進? そして突撃だと? 確か左翼は伯父上の受け持ちだったはず」


 王が太鼓の意味を理解しかねていると、ひとりの騎士が血相を変えて馬を走らせてきた。


「陛下! ファーロラーゼ公が寝返りました!」


 騒々しい戦場にあって、周囲は一瞬にして静まり返る。そんなまさかと思考は否定する。だが、左翼から確実に近づいてくる怒号が、公の裏切りが現実であることを知らせていた。


「くっ、血迷ったか!」


 酷く狼狽するシフォニ王。歴史を遡れば権力闘争のなかで血族を裏切る貴族など数多いるが、しかし他国との戦争の中で謀反を企てる者などどれほどいようか。


「イニピアを誘引するつもりか! つけこまれるぞ伯父上!」


 こんなやり方で王位を戴いてもけっして上手くいくものかとシフォニ王は吐き捨てる。


「陛下! 公爵軍は西に流れつつあります。包囲されてしまう前にお逃げください!」


 我がシフォニ王国が蹂躙されてしまう。その未来が見えていて、そう簡単に退却命令など出せるわけがない。


「陛下!」


 だが、寝返ったファーロラーゼ公は豪傑で知られる猛将。決断の遅れは命取りだ。シフォニ王は、今まさに慮外者が暴れているであろう左翼を睨んで、怒鳴るように全軍に退却を命じた。



「ふっ、ふはは、ふははははははははははは!」


 馬上から高笑いをしたファーロラーゼ公。兵士の頭越しでもシフォニ王国軍の狼狽える姿が手に取るようにわかる。みっともなく右往左往する旗の様子が痛快でならなかった。


「ゆくぞ皆のもの! 最早賽は投げられた!」


 豪快な雄叫びに呼応するように、騎士だけでなく、魔道師だけでなく、領地中からかき集められた兵士までもが咆哮を上げた。高いカリスマ性を持つファーロラーゼ公はセレベセスでは人気が高い。彼の武勇伝が街の劇場で定番の演目となるほどだ。


 兵士たちの士気の高さの理由は公爵人気だけではなかった。ファーロラーゼ公は不敗の名将としても名高かったのだ。この戦は勝ち戦。そう確信していたからこそ、剣を買えない農民たちも鋤や鎌を振りかぶって勇猛果敢に突撃したのだ。 


 しかし相手も人間であれば、攻撃すれば当然反撃が返ってくる。どれだけ奮起しようとも専業兵士ではない農民兵たちは所詮素人だ。隣のやつが腕を切られ泣き喚いていれば激った血も冷めるというもの。だがそうならないのは騎士や魔道師が自分たちと連携を取るようにして戦ってくれたからだ。

 普通、同じ軍に属していても騎士や魔道師と農民兵ではその数も、求められる役割も何もかもが違う。農民兵は主戦力とはいえ消耗品。魔道師の展開する防壁に入ることはできない。騎士や魔道師は雲の上の存在だった。

 けれど今はどうだ。自分たちに的確な指示を下し、あまつさえ先頭に立って、いや、隣に立って奮戦しているではないか。背後からは多彩な魔法が次々と相手陣地に降り注ぎ、確実に敵の厚みを削り取っている。これほど頼もしい味方はいないと、誰もが心打ち震えたことだろう。


 ただ、ファーロラーゼ公が真に兵士たちのことを考えていたかというと、そうではなかった。この局面で自分が寝返れば、シフォニ王国軍は必ず撤退するだろう。その前に、出来る限り国王軍を破壊しなければならない。そのために全戦力をもって圧力をかける必要があったのだ。生半可は許されない。


 ジヤン街道の戦いにおいて、ファーロラーゼ公の裏切りは誰からの邪魔もなく無事に実を結ぶことになる。国王軍は散り散りになり、追撃は連日続いた。


 しかし、ファーロラーゼ公の耳にシフォニ王を捕らえたという報告が届くことはついになかった。

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