第86話 敗者
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前を行く歴戦の騎士が踏みつけた泥が跳ねてオレの顔を汚す。これでもう何度目だ。数えるのも億劫になるくらいってことだけはわかる。
従う相手を間違えたのか。いいや、オレは間違っちゃいない。ただ、ほんの少し目論見が外れただけだ。イニピア王国の王子暗殺で得た金があれば十分あの女を買える。公爵が駄目になっても何も問題はない。
「奥方さまは無事にイニピアへ逃げのびられたでしょうか」
「……」
赤獅子ジフ・ベルディアージが、前を行くファーロラーゼ公爵に問いかけても公爵は沈黙したままだ。一体次は何を企んでいるのか。とはいえ公爵は、良くも悪くもただの野心家だ。何をしでかすかわからないという点では、ヘズモントとかいうジジイに比べればまだわかりやすい。大方、どこかに身を潜めて体勢を立て直し、再起を図るつもりなのだろう。
公爵はもともと口数の少ない人物だったが、そんな奴がついに口を開いたのは、敗走から三日目の夜営時だった。
「エルベストルとノカの間にベント農民反乱の際に使われた砦がある」
「ベント農民反乱、ですか」
公爵の言をオオム返しするジフ。オレも初めて聞く言葉だった。
「知らぬのも無理はなかろう。五百年以上も前のことだ」
「ごひゃく……」
歴史なんて、持てる者のみに許された教養だ。オレも幼い頃はそれなりの名家の子供だったが、ろくな教育を施される前に家は没落してしまった。
「五百年以上も前となると、セリクシア戦争よりも前ですね」
「そうだな」
「なんという砦なのですか?」
「名は、グロワ砦という」
ジフは顎に手を添えて考え込んだ。砦の名に覚えはないか、記憶の底に手を伸ばしているのだろう。時として経験で得た知識は教養を上回ることがあるらしい。騎士であるジフがなかなか思い出せない砦だが、オレにとってはひどく懐かしい名前だった。
「でも、今そこは盗賊のアジトになっているはずです」
「エンハス、知っているのか?」
顔を上げたジフが意外そうにオレを見た。何が意外なものか。今でこそ公爵の使いっ走りをしているが、前職は盗賊の頭領だったのだから。あいにく砦に屯している奴らはオレの傘下にはならなかったけれど、まったく付き合いが無かったわけじゃない。もっとも、良い関係ではなかったが。
「盗賊だった時に小競り合いをした程度ですけどね」
「ふむ、どれほどの規模だったか覚えているか?」
「二十人ほどだったと思いますけど、今はもっと増えてるんじゃないですかね」
「それほど手強い奴らだったのか?」
「いや、それほどでもなかったですよ。ただライバルが消えっちまったから、勢力を伸ばしてると思っただけです」
これについて何故だと問われることはなかった。南部の盗賊が全滅したのは有名な話だ。
「奴らを仲間にするつもりなんですか?」
何気なしに尋ねたオレを公爵は鼻で笑う。
「ふん、愚かなことを言うな。奴らを使うつもりではあるが、下劣を戦列になど加えるものか」
そして吐き捨てるように答えた。あんたの目の前にいるオレも、その下劣なのだがな。
「しかし、盗賊風情にろくな使い道があるとは思いませんが」
どう使うつおつもりなのですかと、ジフは尋ねる。それにはオレも同意見だった。自分で言うのもなんだが、盗賊など殺すか奪うかしか取り柄のない連中だ。軍隊のような規律ある運用に耐えうるとはとても思えない。それともこのオレのように一芸に秀でた奴を見つけ出し、それ以外は切り捨てるつもりなのだろうか。もしそうならば十分納得できる話だが。
だが公爵が考える盗賊の利用方法は、はオレの想像とは別のところにあった。
「奴らにノカを襲わせる」
オレは一瞬、公爵が何を言ったのか分からなかった。いや、言葉そのものの意味は理解できたが、それが何をもたらすのかが分からなかったのだ。単なる野心家とはいえ、謀略渦巻く貴族社会の老狼。騎士としても誉れ高い公爵のことだ、何かオレには及びもつかない深い考えがあるのだろうと思った。オレの知っている彼は、あらゆる意味で手の届かない天上人で、今こうして同じ焚き火を囲っている事自体ありえないことなのだから。だが、ありえないことが起こるだけのことはある。公爵の口からでた真意は頭のイカれたそれだった。
「ノカが襲われれば捜索隊は王国南部を捜索範囲に定めるだろう。通り道の都市を略奪したのだと推測するはずだ。南部の盗賊は壊滅しているし、そもそも盗賊風情が都市を襲えるわけがない。さすれば連中は我々がノカを襲ったと勘違いしてくれることだろうよ」
大敗を喫して気でも狂ったのか。そんなことをすればもとより薄い大義が皆無になってしまう。大義など、オレが語る資格はないが、公爵には必要なものだろうに。だが公爵の表情は真剣そのものだった。
ノカはオレにとっても因縁浅からぬ街だ。さして良い思い出はないから、街がどうなろうと構いやしない。だが、ノカが燃えるとなると、オレには急がなければならない理由ができる。公爵の馬鹿げた妄動に付き合っている暇など無い。
「しかし盗賊などが都市を落とせますか」
公爵の妄言に反応したジフの言葉は、とても秩序を愛する騎士とは思えないものだった。いや、ジフが騎士だったのはもうとうに昔の話か。緋色のサーコートを纏ってはいるものの、騎士の矜持はすでに、彼とともにないらしい。
「風呂にいれて髭を剃れば冒険者くらいには見えるようになるだろう。入場税くらいは駄賃として出してやる」
騎士と盗賊は水と油。盗賊にとって騎士は天敵というべき存在だ。騎士を見れば逃げるか殺すの二択から行動を選択する盗賊だが、それでいて案外、話のわかる人種でもある。秩序の塊たる都市で暴れられるとあらば、喜んで手を貸すだろう。手を貸す? いや、奴らにそんな意識はない。話に乗るだけだ。
「盗賊たちの先導、オレにやらせてもらえませんか」
そう言って立ち上がる元盗賊に、騎士と貴族は見定めるような視線を向けた。
「そうか、貴様はそうだったな」
そう、とはどちらのことだろうか。元盗賊ということか、それともノカに大事なものを残していることか。
「そうであれば任せてみてもよかろう。どれ、策はあるのか?」
「その界隈では一応、名の通った方なんでね」
「必要なものは?」
公爵が懐から小さな革袋を取り出す。だがオレは首を横に振って答えた。
「金なんていりませんよ。盗賊は金では下につきませんからね。奴らを支配するなら金よりも恐怖だ」
夜明け前。まだ真っ暗な森の中でオレは、浅い眠りから目を覚ました。吐く息は白く濁るが、暖かい冬など過ごしたこともないオレにとっては別に寒いとは思わない。
「行くのか?」
と、昨晩まとめておいた荷物を持つと、背後から突然声をかけられ、オレは振り返る。
「ああ、あんたか」
緋色のサーコートを纏った騎士は、立ち上がって少し歩こうと言った。
「あんたは平気なのかよ」
パリパリと霜を踏みつけながらオレは、ジフに尋ねた。詳しくは知らないが、この男は野望ではなく理想のために戦っていたはずだ。たとえファーロラーゼ公爵に利用されていようとも、その先に得た力を、理想を叶える根拠にしようとしていたはずだ。でも今はどうだ。信じた上司は落ちぶれて、今や勢いも風前の灯。挙句に自らの理想とは正反対の悪行を強いられている。
「私は後悔はしておらぬ。ファーロラーゼ公には今まで力を貸して頂いたご恩がある。今こそ私が力を尽くして公を助ける番なのだ」
「目的があったんじゃないのか」
「生きている限り、必ず機会が巡ってこよう」
「気の長いことだ」
「本当に」
ジフは自嘲する。
あの勇ましく誰にも追随を許さぬほどの騎士だったのに、今はその面影すらない。
「あんたのそんな顔、見たくはなかったよ」
森の切れ目でオレたちは別れる。ジフは再び公爵の元へ。オレは南へ走った。
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