第57話 錯綜する想い

 結晶から手を離し、立ち上がったヨルヤは、スレンに背を向け走り出す。慌ててスレンも彼女の後を追った。裾を引きずるほど丈の長いローブを纏ったヨルヤが、身体強化をしたスレンから逃げられるはずもなく、彼女の腕はあえなくスレンに捕まえられてしまう。驚きのあまりもつれさせた足がローブの裾を踏みつけ、ヨルヤは地面に身を投げだしてしまった。地面に投げ出されるヨルヤ。


 ――だが痛くない。


 ヨルヤは咄嗟に瞑った瞼を恐る恐る開けた。


「ヨルヤがおれに教えたんだろ。なのに、どうして逃げるんだよ」


 顔をあげると苦い顔をしたスレンがいた。自分がスレンの上に乗っていることに気がついたヨルヤは慌てて飛び退いた。


「そういや、ヨルヤが走ったところ、初めて見たな」


 そんな軽口を溢しながら体を起こすスレン。そしてヨルヤを庇った拍子に擦りむいた手をそれとなく隠した。


「ん、ヨルヤ?」


 一度は逃げようとしたヨルヤが、今度はスレンの隣に身を寄せた。だがそれはスレンの庇護を受け入れるという意思の表れではなかった。スレンの隠した手を取り、ヨルヤはいつかのように治癒の魔法を使う。優しい若草色の光を前にスレンが気恥ずかしそうにしていると、徐々に塞がっていく傷口を見つめながらヨルヤが呟くように口を開いた。


「どうして来たの」


 突き放すような言葉だ。質問ではなく、警告のような。少なくとも姫を救い出しに駆けつけた王子に向けられるような、そんなロマンチックなものではない。


「ヨルヤを連れ戻しに来た」


 恩着せがましいのはスレンの本意ではない。だからスレンは「助けに来た」とは言わなかった。ヨルヤの意思は関係ない。ヨルヤがどう思っていようと、おれはヨルヤをアカデミーに連れ戻すのだと、あたかも傍若無人な振る舞いのように言い切ってみせた。


「……優しいのね」


 だが彼女は知っていた。スレンがそんな器用な嘘など吐けないということを。


「でも、頼んでないわ。もうわたしに関わらないで」


 彼女の優しさなのだろうか。だが公爵の野望が成就すれば、その先の情勢は未知数。彼女がスレンの安寧を望んでも、それが叶うとは限らないというのに。だが、傀儡か、あるいは都合の良い道具として利用されているだけの十歳の少女が、公爵の思惑を看破することなどできない。彼女にできるのは、ただ目の前の災いから遠ざけることだけだ。


「じゃあ、どうして治癒の魔法をおれに見せたんだ!」


 問い詰めるスレンの口調は強い。傷を癒やし終え、離れゆく彼女の手をスレンは捕まえる。


「それは……」

「聖女が自分だって気づいて欲しかったんじゃないのか。助けて欲しかったんじゃないのか!?」


 彼女は言い淀む。思い上がりね、と返せたらどれだけ楽だったろうか。彼女は、自分でもわからなかった。どうして自分は図書館でスレンの傷を癒やしたのだろう。スレンの言う通り、治癒魔法を見せれば、いずれスレンが聖女イコールヨルヤという答えに辿り着くことは容易に想像できたというのに。気づいて欲しかった。助けて欲しかった。けれど、巻き込みたくはない。ジフは強い騎士だ。騎士の天敵である魔道師を何人も殺してきた。現実にスレンとて、無事では済まなかった。

 矛盾するふたつの気持ち。だがヨルヤの心を掻き乱していたのはまったくべつのものだった。


「一緒に帰ろう、ヨルヤ。ミルレットも待ってる」


 曇りのないスレンの瞳。そこには顔を背けるヨルヤが映っている。


「駄目よ」

「どうして?」


 スレンは何度でも問いかけるだろう。けれど、ヨルヤは応えられなかったのだ。


「だめなの」

「だからなんで――」

「貴方には関係ない」

「ある。おれだってもうこの国の人間で、それに……おまえの友達だ」


 軽く目を見開いたヨルヤだったが、それはほんの一瞬。すぐに表情を取り繕ったヨルヤは、馬鹿にしたようにスレンを冷笑し、


「自惚れないで、貴方にわたしの何がわかるというの」


 と吐き捨てた。見上げるスレンは言葉を失った。おれはヨルヤの何を知っているんだろうと、この期に及んで真面目に考えていたのだ。

 秘密の告白をヨルヤからの救難信号だと思った。けれど目の前の彼女は自分を突き放す。強がっているのだと思ったけれど、何回押してもヨルヤは手を取ってくれないじゃないか。それどころかどんどん突き放した態度になっていく。


「わかったらもう行って。じきに騎士たちが来るわ」


 そう言うとヨルヤは背を向け、先程手放した魔力結晶に再び手を添えた。


「アザラ、ディア、ヨルナーク。アダラ、セヤ、ニットヤルマルク。ラカラ、メア、ファジアローベ」


 彼女の唱えた呪文は、スレンがこれまで聞いてきたどの呪文とも違う種類のものだった。魔法とは神々の加護を得て発動するものだ。だから呪文には必ず神々の名が盛り込まれる。だがヨルヤの唱えた呪文のどこにも神々の姿はなかった。効果も規模も、属性すらも予想不能の事態にスレンは戦慄する。


「何をした?! ヨルヤ!」


 ひとつ確かなのは、ヨルヤが手を離して以来動きを止めていた魔力が、再び乱れ始めたということだ。急速に魔力の濃度が下がっていく。ヨルヤの言う通り、ほどなくして騎士が駆けつけられる薄さになるだろう。スレンに焦りが生まれる。もうさほどの時間も無い。


「もう終わりよ」


 薄ら笑みすら浮かべたヨルヤ。激しくうねりを上げ乱れ狂う魔力の奔流のなかで、スレンは彼女の頬に一筋の雫を目撃する。


「やっぱり、やっぱりヨルヤを置いてはいけない!」


 だがスレンは、彼女の次の一言で立ち尽くすことになる。


「五月蝿い! どうしてわたしの前に現れたの?! いつも、貴方に会った日は必ず夢を見た! 怖くて悲しい夢。もう嫌なの! あんな夢は見たくないのに……けれど図書館で貴方を待っていたのは何故? わたしなのに、わたしはわたしが解らない! もう嫌よ……苦しくて、辛いの。貴方にこれは治せないでしょう!?」


 初めて聞いたヨルヤの叫びだった。

 酷く感情を昂ぶらせて泣き喚くヨルヤ。

 苦しいのだろう、胸をきつく掴むあまり、指先が白くなってしまっている。そんなヨルヤを前にして、スレンは深い混乱へと叩き落とされた。


「ゆ、め? 夢だって? なに、言ってるんだよ」


 喉が震えてうまく声が出せていない。それに酷い動悸だ。


 スレンに背を向け立ち去ろうとするヨルヤ。いくら混乱しているとはいえ、このままヨルヤを行かせるわけにはいかないと、スレンは彼女の小さい背中を追う。だが、心から溢れ出した動揺が足をもつれさせた。


「ま、待って……!」


 遠ざかりつつある白フードの背中に、無様に縋るような声を投げるスレン。そして、今生の別れのような顔をしたヨルヤが振り返るのと同時に、彼女の向こうから緋色のサーコートが現れた。


「ジフ、ベルディアージ!」


 現れた騎士は冷たい目でスレンを一瞥する。そして取るに足らぬと言わんばかりにヨルヤに向き直った。


「遅かったのはこいつのせいか。まあ良い、行くぞ」

「……はい」


 ヨルヤにさっきまでの取り乱した様子はない。いつもの冷静なヨルヤだ。


「待て!」


 スレンの叫びは彼らに届くことはなく、ヨルヤももう二度と振り返りはしなかった。

 ヨルヤとジフが消え、それでも追おうと思えば追えただろう。だが、スレンの心はそれを許さなかった。許されたのはただ立ち尽くすことのみ。説得できなかったことへの無念さはある。追えなかったことへの自責も。けれどそれ以上に、スレンの中には泥濘のような疑念が渦巻いていた。


 スレンたちは予定通りアニムを目指した。結社と遭遇したということで、アターシアはかなり急いで馬を走らせた。ヨルヤによって破壊された原色地はそのままだ。近くに集落がない以上、急いで修復する必要はないし、修復すればまた、ラベンヘイズの時のように襲われるかも知れない。そして何より、どの質問にも上の空で、空返事しか返さないスレンが、まともに役割をこなせるはずがなかった。


 スレンはずっと考えていた。アターシアの後ろで馬に揺られている時も、寒空の下、焚き火を囲って夜営をしている時も。


 夢って、なんだよ……。


 捉えようのないことを言うヨルヤに憤りつつも、自分にも同じような経験があったことを思いだす。彼女の夢とはまた違うものなのだろうけれど、恐ろしくて悲しいというのは同じだ。あの悪夢。もうずっと見ていないし、内容もほとんど思い出せないけれど、抱いた感情だけは心に根深くこびりついている。その夢を見た朝は、いつも頬に涙の跡がついていた。彼女はどんな悪夢にうなされているのだろう。


 ヨルヤが苦しんでいるのなら助けてあげたい。夢にうなされているのなら、流れる涙を拭ってあげたいと思う。けれど、自分が傍にいることで、ヨルヤを苦しめていたのなら、おれはもう、ヨルヤとは会わないほうが良いのかも知れない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る