第67話 ノカの湖畔

 湖が原色地となる場合、中心は湖の中にある場合がほとんどで、当然、核ともよべる魔力結晶は水底に沈んでいる。だがノカの原色地は中心部が湖畔にある珍しい場所だった。だから標的にされたのだろう。スレンたちは、原色地の中心部だった場所で灰色に濁った結晶を見つけたのだった。


「これ、修復したらまた襲われるんじゃ」


 かつてラベンヘイズでそうだったように、もし原色地が壊されて間もなければ、まだ近くに結社がいるかもしれない。スレンは不安要素を口にする。修復中はスレンはふたりと離れ離れにならなければならない。修復された原色地に立ち入れるのは、他者の魔力に干渉できるヨルヤだけだ。だから、破壊したはずの原色地に異変があった場合、それを察知し、引き換えしてきた結社と鉢合わせになるのは、外縁で待機するアターシアとアキュナの方だ。スレンも、ふたりが脆弱だとは思わないが、ジフ率いる結社が相手では多勢に無勢。その危険性は見過ごせる程度を越えている。


「大丈夫よ」


 だが、スレンの危惧にアキュナが異を唱えた。それはスレンを安心させようという気遣いというよりも、現状報告のような口調だった。


「どういうこと?」


 アキュナの見つめている地面を、スレンとアターシアは覗き込む。


「動物の足跡?」

「まだ新しいわね」


 原色地はいかなる生物も寄り付かせない死の沼のような場所だ。魔力に惹かれて近づきすぎれば、濃すぎる魔力にあてられ、藻掻き苦しむ羽目になる。そしてほどなく命を落としてしまうだろう。だから原色地が原色地であり続けるかぎり、人間であろうと動物であろうと立ち入ることなどできないのだ。確かにスレンやヨルヤという例外も存在する。だがたった一人で極大魔法を発動させたり、不可能とされてきた治癒魔法を使ったりする者が、そう何人もいてたまるものか。つまり、野生動物が普段の行動範囲に含まれない場所にふらふらと迷い込むくらいの時間は、経過しているというのがアキュナの予想だった。


「魔獣という線は?」


 原色地の魔力にあてられ、生死を彷徨う獣のなかに、極稀に――突然変異といってもいい――魔力に適応する個体が現れる。それらは魔獣と呼ばれ、人々のみならず、もともと同じ種であった動物からも恐れられている。

 魔力に身体を侵された魔獣であれば、原色地の中でも活動できるだろう。しかしアターシアの示した可能性は、やはりアキュナに否定されてしまう。


「魔獣がいたら、それこそジフ・ベルディアージに討伐されているわ」


 魔獣は非常に凶暴である。腹を空かせた狼の群れは、時に行商を襲うこともあるが、魔獣は腹を空かせていなくても人間を襲う。だから魔獣が目撃されれば、そこの領主は躍起になって討伐隊を組織するのだ。騎士団はもちろん、傭兵や、冒険者を雇うことも多い。アキュナが見つけた獣の足跡が魔獣のもので、結社がまだ近くにいるのであれば、両者は鉢合わせになっているだろう。魔獣は確かに凶暴で、元の獣よりも何倍も強い。だが、群れを成さない以上、組織だって動いている結社に敵うことはない。


「それにもし魔獣なら、とっくにここを離れているでしょう」

「確かにそうね」


 魔力に惹かれ、魔力に侵された魔獣が、魔力を失った原色地に長く留まることはない。もっとも、原色地が破壊されたこと自体が異例なのだから、すべては推測に過ぎないのだが。


 ともかく大丈夫そうだということで、スレンはノカの原色地を修復した。そして無事合流した三人は、南に転進するため、湖畔沿いを進んだ。


 沈みかけの太陽に目を向けると、地平線からオズミア山脈の尾根が顔を出しているのが見える。ここより西に都市はなく、あるのは農村ばかり。いよいよ狩猟生活が現実味を帯びてきたと、アターシアが肩を落としていると、ノカの街の、ちょうど反対側の湖沿いに寂れた集落が見えた。


 ちょうど腹も空いてきていた三人は、これ幸いと歩を進める。そして井戸端で話し込んでいる村人を見つけ、声をかけようと手を挙げかけた。


「――そんなわけないだろ、もう二年になるんだ。今さら戻ってくるわけがねぇ……」

「そんなら今のはなんなんだ! 聖女さまが神さんに語りかけられたに違えねえ!」


 アターシアの手は上がりきる前に静止する。躊躇ったところで何も変わらないのだが、思いがけない情報にアターシアは戸惑ってしまったのだ。彼女が静止したのは本当にほんのわずかな時間だった。一瞬といっても良い。だが、その一瞬の内に彼女はスレンに追い抜かれた。


「すみません、その話、詳しく聞かせてもらえませんか」


 話に割って入られた村人は、互いに見合い、それからそろって訝しげな視線をスレンに向けた。


「何だおめえ」


 さっきまで意見を違わせていたとは思えないほど、スレンたちに向けるふたりの感情は一致している。怪しい余所者が一体何のようだ、といったところだろうか。だが、如何に邪魔者扱いされようとも、スレンには引けない理由がある。


「あなたたちがさっき話していた聖女っていうのは、結社の聖女のことか?」

「おめえ、なにもんだ」


 だが、問うても村人は答えてはくれなかった。当然だ。聖女さまを聖女などと呼び捨てにしたのだ。どう考えても同じ信奉者ではない。彼らとて、聖女を信奉していても、彼女らが社会から受け入れられる存在でないことはわかっている。それだけに詮索する輩のことは警戒しなければならない。ともすれば異端者として告発されるかもしれないのだ。聖女さまを否定することは躊躇われるが、迂闊に肯定することもできない。


 だがそんな事情などスレンには関係のないこと。ただただヨルヤの情報が欲しいだけのスレンは、質問を質問で返され、遅々として進まない会話に苛立ちさえ覚えていた。だが、強引に聞き出そうとして乱暴な言葉づかいになれば、彼らの警戒はますます強いものになるだろう。それくらいのことはスレンでも考え至ることができた。


「おれも聖女……聖女さまに傷を癒やしてもらったんだ。お礼がしたかったのだけれど、再び見える前に聖女さまは街を出立されたんだ。おれ、ずっと心残りで」


 嘘ではない。ただ、彼らの望む言葉を使っただけだ。ずいぶんと器用になったものだと、内心で自嘲したスレンだったが、言葉を選んだかいあって、男たちの興味をひくことができた。聖女が治癒魔法を使うというのは、実際に癒やしを受けた者以外にはわからないことだ。噂は広まるが、治癒の魔法など、魔法に縁遠い農民でさえ信じられないことだ。それが疑う様子もなく治癒の魔法などと口走れば、本当に施術を受けたのだろうと思うだろう。


「ほう、おめえも聖女さまに救われたんか。見たところ農民には見えねえが」


 スレンはアターシアを見る。埃まみれのローブの下は平民では手の届かないような上質な上着。アキュナに至ってはアニム騎士団のサーコートだ。身分差を使って彼らを従わせることはできるが……


「商人よ」


 アターシアはそれを望まなかった。


「そうか」


 男たちは再び目配せをして、そして頷きあった。スレンたちは彼らの信頼を得られたのだろうか。少なくとも警戒は解けたようだ。男たちは話し始める。


「湖のちょうど反対側にあるノカの街はな、二年ほど前までか、聖女さまがいらっしゃったところなんだ」


 誇らしげに語る男だが、その肩はすぐにガクリと落ちる。


「二年前まで、というのは?」

「そのままの意味さ。たまにこの村にも足を運んで下さっていたんだが、ある日突然、どこかへ行かれてしまったんだよ」

「聖女さまがいなくなって以来、凶作続きでよぉ」

「だから戻ってきてくださったんだって言ってるだろ!」

「……」


 ふたりの話しは、スレンたちに声をかけられる前にしていた内容に帰結する。


「どうしてヨル……聖女さまが戻ってきたって思うんですか?」

「だっておめえ、さっき、魔力がぞわって動いたろ。それで見に行ったんだが、もうずっと前に消えちまった魔力溜まりが復活してたんだよ。そんなこと出来るの、魔道師さまの聖女さま以外ありえねえ。きっとノカんために直し方、勉強して戻ってきてくださったに違えねえ!」


 興奮気味に願望を並べ立てる男に向けるスレンたちの表情は、なんとも複雑なものだった。だが男は気にする様子もなく、


「これからノカに見に行くんだ! おめらも来い!」


 と、手招きをしてみせた。と、


「やめろ!」


 スレンたちの背後から、唐突に怒号が上がった。不意を突かれたスレンたちは、反射的に振り返る。


「あいつはノカを捨てたんだ! 今さら戻ってくるもんか!」


 声の調子から青年であることが窺える。アターシアたちと同じくらいの年齢だろうか。そこには深くフードを被った、ローブ姿の男が立っていた。

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