第50話 秘密

 スレンが図書館に行くと、いつもの会議室でヨルヤは本を読んでいた。テーブルに肘をついて、長い黒髪を耳にかけてそのまま優雅に頬杖をつく。ページに落とした視線が酷く憂鬱そうだけれど、それは見る角度のせいだろうか。


「こんにちは」


 スレンが声をかけると、ヨルヤは伏せていた視線を上げた。


「久しぶりね」


 相変わらず口数が少ない。


「そっちも謹慎だったんだろ?」

「ええ、ミルレットもそうだと聞いたわ」

「おれもそう聞いた。そのミルレットは?」

「さあ、今日は見ていないけれど。流石に謹慎明けですぐに図書館に来るのは外聞が悪いと思ったんじゃないかしら」

「案外、心配性なんだな」

「酷いわね。あれでも王女なのよ彼女」

「酷いのはヨルヤもだろ」


 お互いに自覚あり。それすら互いにわかった上で指摘をし合う。そんな相互理解に思わずふたりは見つめ合い、笑いあった。表情の変化に乏しいヨルヤが笑ったことにスレンは少し驚いたが、笑顔を見せてくれたことが何より嬉しかった。ヨルヤがおれを騙すわけがないと、そう思えたのは、その眩しい笑顔に絆されたからなのか、それとも最初から疑うことを恐れていたからなのか。スレン自身にもわからないことだが、とにかくスレンは懲罰の顛末について言及することを避けたのだった。


「謹慎中に何かあった?」


 やはり腕の包帯は目立つらしい。ヨルヤはスレンの腕と顔を交互に見て尋ねた。


「ああ、これ? これは――」


 言いかけてスレンはため息をつく。謹慎中なのだから大人しくしていればあんな目にあわなかったのに、と。思っても仕方のないことだが、腕の傷に疼きを感じるたび愚痴をこぼしそうになる。


「謹慎中にアターシアの研究に付き合ってラベンヘイズって街の原色地に行ってきたんだ」

「謹慎中に?」

「そうなんだよ。それはそれ、これはこれ、とか言って」

「それで、狼の群れにでも襲われたの? 盗賊はいなくなったみたいだし」


 スレンは躊躇する。何気なく話してしまったが、本当にこの先を話しても大丈夫なのだろうか。魔法の時と違って、アターシアからは特に何も言われてはいない。それに本当に襲われる心当たりが無い以上、話したことが知られても咎められることはないはずだ。アターシアもヘズモントに話していた。


「……襲われたけど、狼の群れじゃない」

「なに?」


 少し、逡巡する。もしかしたら危険に巻き込んでしまうかもしれないと思い至ったからだ。


「いや、やっぱりなんでもない」

「なにそれ」


 ミルレットなら優雅に皮肉を並べながら追求してくるところだが、ヨルヤだとそうはならない。興味が無いのか、遠慮しているのか。それはスレンにはわからないことだ。追求がないのは幸いだが、ないならないでツレナイと感じてしまうのは何故だろうか。


「危ない目にあったのは確かだけど、無事だったから良いだろ」


 これでこの話題は終わりだと言わんばかりに視線を反らしたスレン。世の中、知らない方が良いこともあると、ついこの間までヨルヤに獣呼ばわりされていたスレンが、麗しき図書館の君、公爵令嬢であるヨルヤにそのような配慮をする日がこようとは、なんと成長目覚ましいことか。だが微笑ましくありつつも、同時に皮肉めいたものもある。

 スレンはだんまりを決め込み、ヨルヤの反応に備えた。「そうね」と、あっさり納得してくれれば良いのだけど、とスレンは腕組みをしながら横目でちらりとヨルヤの様子を窺ってみる。だが先程いた場所にヨルヤの姿はなかった。


「こんな怪我をして――」


 と、背後からヨルヤの声がして、そっと右手に握られている感触が伝わった。


「こんな怪我をして、無事だったなんていわないわ」


 瞳を悲しそうに伏せ、ヨルヤは包帯の巻かれたスレンの右手をそっと、まるで子猫にするように大切に包み込む。


「ヨル――」

「五番の神イルスよ、七番の神ルートよ、どうかお慈悲の賜らんことを。我が魔力に御力の加護を与え、此の者を癒やし給え。傷を治し、再びその手で短杖を振るえるように」


 大袈裟だなと、スレンが照れ隠しでヨルヤの名を口にしかけたその時、唐突にヨルヤが呪文を唱え始めた。そしてそれに呼応するように包帯の網目から若草色の光が溢れ出した。

 スレンは目を見張る。なんという異物感だろうか。右手に流れ込んでくる暖かな魔力は自分のものではない。では誰のものだ。決まっている目の前の少女のものだ。自分の体のなかに他人の魔力が流れ込んでくる。これは自然界の魔力を自由に扱えるスレンの異常さとはまた別の意味での異常だった。

 いつか、アターシアはスレンに、他者の魔力も自由に使うことができるのかと尋ねた。その時スレンは、できるわけがないと否定した。自分に扱えるのは、何者にも支配されていない魔力だけだと。しかしヨルヤのしているこれはどうだ。確かに魔力を直接操られているという感覚はないが、自分の意思に反してヨルヤの魔力が自分の魔力と混ざり合っているのを感じるではないか。


「ヨルヤ?!」


 スレンが取り乱すのも当然だった。だが、スレンはすぐに平静を取り戻す。なぜなら、流れ来るヨルヤの魔力に一切の害意を感じなかったからだ。それどころか、心地良さすら感じた。

 やがて光が治まり、ヨルヤの手はスレンの腕を解放する。瞠目しつつもスレンは恐る恐る包帯を解いた。


「治ってる……」


 丸くした目をヨルヤに向けると、


「もう、怪我をしては駄目よ」


 と、彼女は優しく微笑んだ。


 治癒魔法というものは存在しない。他者を癒やすものはもちろんのこと、自分自身を癒やす魔法も、少なくとも『魔法』の範疇には存在してはいないし、スレンも使えなかった。それはいくら自分自身を強化しても、数週間かけてようやく完治するような傷を、瞬時に癒やすほどの効果は得られないからだ。たとえ数日で治るような指先の小さな切り傷でも、『治癒魔法』と呼べるほどの効果を得るには、何万倍にも自己治癒力を強化しなくてはならない。費用対効果が悪いというレベルの話ではないのだ。

 ではヨルヤのしたことは何だ?

 スレンには理解できなかった。


「ヨルヤ、これは……?」


 理解できなければ尋ねるしかない。


「ふたりだけの秘密よ」


 しかしヨルヤは答えてはくれなかった。ヨルヤのイタズラな笑みに呆けるスレンだったが、すぐにハッとして、スレンも不敵に笑ってみせた。秘密の共有には慣れている。


「じゃあ、おれも秘密を教えるよ。これであいこだ」


 アターシアには悪いが、驚かされっぱなしは悔しいものだ。とはいえ、スレンの秘密とヨルヤの秘密ではどちらが重いのだろう。


「秘密?」


 首を傾げるヨルヤにスレンは得意げに笑う。包帯の取れた右手を出し、人差し指をぴんと立てた。カロア村にアターシアと共に来ていたヨルヤは、スレンの無詠唱を知っている。ならばスレンが明かすのはもう一つの方の秘密だ。

 わずかな魔力を移動させても肌で感じることはできない。だからといって集めすぎてもヨルヤが苦しむだろう。だからスレンはゆっくりと部屋に満ちる魔力をヨルヤの周囲に集めたのだった。

 ヨルヤの時と違って魔法の発動がないぶん酷く地味な静寂だ。そんななか首を傾げていたヨルヤが、はたと気づく。


「魔力が……?」


 まだ確信には至れないのか。しかし、にっと口角を上げるスレンに、ヨルヤは核心を口にする。


「魔力を動かしているの?」


 スレンは魔力操作の手を止める。


「これ、明かしたこと、本当にアターシアには内緒だからな」


 誓約でも交わすかのように真剣な表情のスレン。そこまで恐れるのなら見せなくても良かったのにと、ヨルヤは呆れたのだった。

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