第10話 一対四百
四百人もの人間はぱっと見て数えられるものではない。ましてスレンは計算ができない。数の数え方も、ズウラには十までしか教わらなかった。だからスレンには、四百もの松明の明かりは無数に思えただろう。だがスレンは恐れずに闇夜を進んだ。進みながら考えていた。
昼間は、いつも獲物を仕留めるために使っている魔法を使ったが、さすがに四百人を氷の矢で倒すには骨が折れる。
「何か考えないとな……」
村を出たスレンは両手を掲げた。どこからかペキペキと乾いた音がして、上空に十数本の氷柱が現れる。一切の躊躇なく、スレンは腕を振り下ろす。氷柱が飲み込まれた先の暗闇で、いくつかの悲鳴が上がり、いくつかの松明が消えた。
「やっぱり足りないなあ。もっと大きな……」
今まで、生きるために必要だったのは、獲物を仕留める矢と、それを焼くための火種。水を運ぶための魔法くらい。どれもそう大きな魔法ではない。だから、これが初めてだった。スレンは生まれて初めて、人間を効率よく殺すための魔法を考えたのだ。
「やっぱりこれかな」
スレンが掲げた右手に、巨大な火球が出現した。触れただけで被害を被る属性は、これと雷くらいだろう。スレンだって、火傷の経験くらいある。
「もっと熱い炎にできるか」
魔力をどんどんつぎ込んでいくと、やがて火球は眩い光を放つようになった。中心は白く、まるで太陽のようにスレンの周囲を照らしている。轟々とおどろおどろしく燃えるそれをスレンは、松明の群れめがけて放った。
一瞬にして着弾地点は阿鼻叫喚の地獄と化す。直撃した者は蒸発し、近くにいた者でさえ、その熱によって肌を爛れさせている。地面は黒く焼け焦げ、延焼した炎がさらに被害を拡大させた。盗賊たちとはまだそれなりの距離があるが、静かな夜に大勢の悲鳴は良く響いた。スレンはさらに両手を掲げる。頭上にさきほどと同じ大きさの火球がふたつ。盗賊たちの誰もが恐れおののく状況の中、ひとつの冷静な怒号が響いた。
「アイツだ! かかれ!」
その号令に盗賊たちは一斉に声を上げ、武器を掲げて走り出す。けして冷静さを取り戻したわけではない。蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うだけの有象無象が、たったひとりの従うべき者の命令を得た。どのような状況であっても最優先される声。それが盗賊たちの脳髄に刻み込まれている。つまり、男たちが怒号を上げたのはただの反射によるものだ。
盗賊は利己的な人種だ。抜け駆けした挙句エンハスに処罰された男たちがそうだったように、決死の一番槍は誰もが避けたがるだろう。そこが騎士団や兵士との決定的な違いであり、弱点でもあった。だが――
「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」」
スレンは驚愕した。武装した男たちがまるで猪のようにまっすぐ突っ込んでくるのだ。慌てて両手の火球を放り投げる。圧倒的火力を誇るスレンでも、戦いに関してはまったくの無知だった。目の前に迫る男たちは断末魔を上げる間もなく溶けたが、その向こうから次々と新手が押し寄せてきたのだ。一瞬前まで仲間だった肉塊を踏みつけ、蹴飛ばし、乗り越えて。顔に深い皺が刻まれるほどの恐ろしい形相は、まさに狂気そのものだった。
「うわあああああああああああああああああ!」
鬼気迫る彼らの勢いに気圧されたスレンは絶叫する。そして両手を広げ、目一杯の魔力を頭上に集めた。スレンが最も使い慣れた攻撃魔法。すなわち無数の氷柱がスレンの頭上に顕現する。間髪入れずにスレンは男たちに向けて放った。狙いを定めている余裕などありはしない。ある者は大腿部に突き刺さり、ある者は手首がふっとばされ、ある者は眼球に突き刺さった。そこかしこから悲鳴が聞こえてくるが、それでも戦列の勢いは止まらない。生まれて初めて恐怖というものを感じたスレンは、思わず後ろに跳躍した。
スレンは戸惑っていた。いったい彼らはなんのために戦っているのか。盗賊団といえどもアジトを構える以上、ただ単に奪い尽くすだけでは長くもたない。大所帯になるほどヤクザな仕事が必要になってくる。面子と言えば馬鹿馬鹿しく聞こえるが、舐められれば仕事が面倒になる。エンハスはそれを嫌って今回の報復を決めた。スレンにはそれが理解できなかった。何か、男たちを必死にさせる重要な理由があるのかもしれない。この期に及んでそんなことを考えていた。その余念が、背後から忍び寄るエンハスの存在に気づくのを遅らせた。
「死ね」
斬撃と同時に放たれた言葉はエンハスの失言だった。もしも無言で斬りつけていれば、あるいはスレンを殺すことができたかもしれない。しかしエンハスの迂闊な一言が、スレンに気づかせてしまった。エンハスの誤算は、スレンの反射神経を見誤ったことだ。もっとも、魔道師が野生動物並みの反射神経を持っているなどと誰が予想できるだろう。
間一髪でエンハスの攻撃を躱したスレンは、さらなる追撃から逃れるために高く高く跳躍する。そして戦場を俯瞰することで、自分がすでに村の近くまで押されていることを自覚した。
エンハスとの一瞬の攻防の隙に、盗賊たちはさらに距離を詰めている。着地地点ではエンハスが万全の体勢で待ち構えている。
「ダメだ。あいつ、強い!」
エンハスの相手をしていたら押し寄せる盗賊たちは止められない。かといってエンハスを無視するわけにもいかない。どう動いても正解ではない現状に、スレンはゾクリと寒気を覚えた。そして燃える村、殺されるマリの姿が脳裏に映し出された。
瞬間、血が沸いた。
スレンは落下しながら両手を前へ突き出す。眼下の夥しい数の松明の明かりに向けて。盗賊たちはすでにひとりひとりの姿が見えるくらい近づいてきている。
真下にいるエンハスは着地際を狙ってくるだろう。魔法を使わせまいと、猛攻撃をしかけてくるはずだ。そうなれば盗賊たちに意識を割くのは難しくなる。ならば落下中の、この数瞬に賭けるしかない。
いくら高く跳躍したからといって、着地までのわずかな時間でいったい何が出来るだろうか。普通、そんなこと、疑問にすら思わない。一切の疑問なく、躊躇なく、疑いなく、空宙で身動きのできない相手の、着地際の背後に立てるように回り込み、そしてひと薙ぎする。それだけだ。だがそれがエンハスの、もうひとつの誤算だった。上空のスレンが両腕を突き出した時、全身に痛みが走った。無数の針が肌に触れたような感覚だった。エンハスの本能は逃げろと叫ぶ。しかしそんな時間はなく、迫りくる仲間たちへ視線を落としたエンハスは目を見張った。大量に集められた魔力が、魔法に、炎に変わる瞬間を目撃したのだ。
夜を描いた真っ黒な絵画の上から、ぼとりと落とした絵の具のような、暗闇のなかに浮き上がる赤。それは渦を巻くように巨大化し、その場所に顕現したのは地獄だった。四百人を包み込む大火炎。流動する炎はまるで泥のように見える。煙のない純然たる炎の塊がぼとりと地面に落ちる。火炎から飛び出してきた最前列の男たちは、勢いそのままに地面を転がった。突撃する男たちの怒号は悲鳴に変わり、スレンの魔法はわずかな時間で霧散したが、彼らはすでに進軍を続けられる状態にはなかった。身体の至る所が爛れ、ある者は失明し、ある者は体の一部が焼失していた。
スレンが着地すると、そこにエンハスの姿はなかった。スレンは不審に思ったが、森での生活で培った野生の勘――あるいは嗅覚が、彼は去ったと告げた。
スレンは前を見る。地獄のような光景のなかに、運良く即死を避けられた男たちが一割ほどいる。特に最前列にいた勇敢な男たちは、かなり軽症な部類だ。どの道戦える状態ではなさそうだが、スレンはもう同じ過ちを繰り返すつもりはなかった。
歩きながら掌に氷属性の魔力を集める。呻き声の元へ辿り着くと、ひとりひとり丁寧に、心臓に氷柱を突き立てていった。その度に気味の悪い断末魔が上がり、程なくして静かになる。それを黒焦げの戦場で十数回繰り返した時、
「死ねええええ化物が!」
突然ひとりの男がスレンの背後から襲い掛かってきた。運良く炎を逃れた盗賊のひとりが、仲間の死体に隠れてチャンスを窺っていたようだ。男の斬撃を冷静に躱したスレンは、今までと同じように氷柱を作り、体勢を崩した男の背後から胸を目掛けて突き立てた。男は喀血し、地面に倒れたときにはすでに事切れていた。
「こんなの、人間のすることじゃない……」
スレンが、人間というものを知らないからこそ溢れ出た言葉だった。四百人を殺し尽くした自分へ向けたものなのか、自分に四百人もの人間を殺させた状況へ向けたものなのか、カロア村を襲い、殺しを働いた盗賊たちへ向けたものなのか、あるいはその全てか。いずれにせよ認めるわけにはいかなかった。認めてしまえば悪夢に登場したあの男を肯定してしまうような気がしたから。
あと二度ほどこういうやり取りがあって、地面から聞こえる呻き声も消し、戦場に静寂が戻ったのは、もう東の空が白んできた頃だった。
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