第12話 別れの歌
アターシアたちが村を去った後、スレンは熱を出して倒れてしまった。薄れゆく意識のなかで、慣れないことはするものじゃないなと自分自身に呆れた。しかし自嘲はしない。なぜならその慣れないことしなければマリたちを守れなかったからだ。
目覚めた時、スレンはベッドの上に寝かされていた。まだぼやつく目をうっすら開かせて、スレンは周囲を窺った。パチパチと薪の燃える音も初めて横になる藁のベッドも、とても心地が良くて、スレンはまた微睡みに意識を預けた。
□
スレンが再び目覚めた時、まだ閉じられた瞼の向こう側から誰かの声が聞こえた。すぐにマリの声だとわかったが、誰かと話しているわけでも、独り言を言っているわけでもなさそうだった。抑揚があって、早くなったり遅くなったり、言葉の内容は、どこか遠くへ行ってしまう友人へ宛てたもののようだ。マリの声はとても寂しそうだが、とても聴き心地がよくて、スレンはとても落ち着いた気持ちで両目を開けることができた。
普段とは違う高い声。小鳥の囀りのような、透き通った音色だった。スレンが見覚えのない天井をぼうっと眺めながらマリの紡ぐ不思議な言葉を聞いていると、ふと、消え入るようにマリの声が途絶えた。話しかけるタイミングを得たが、もう少し聞いていたかった気もする。
「マリ……」
「へえ?」
マリはマリで、スレンが起きていたことにびっくりして、素っ頓狂な声を上げた。そしてひらひらと手を振るスレンに、覆いかぶさるように抱きついた。
「スレン!」
マリはスレンが寝込んでいた間ずっと後悔していた。スレンの何が理解できなくとも、彼が自分たちを助けてくれたことには変わりはない。それに少し考えれば、スレンが戦いによって傷心する優しい少年だというのはわかることだったのだ。大男に捕まえられていたマリの前に現れたスレンは、たとえ盗賊が相手でも最後まで暴力を振るおうとはしなかったのだから。
「お、大袈裟だよマリ。ちょっと倒れたくらいで」
「ちょっとって……あなた三日も寝込んでいたのよ!?」
そのうえ熱にうなされていたら心配もするだろう。スレンは自分が思った以上に疲弊していたことを知った。
「マリ、さっきは何を話してたの?」
「さっき?」
スレンはマリの言葉を覚えている範囲で口ずさむ。スレンが歌のことを言っているのだとわかったマリは、大きく頷いてみせた。
「ああ! お母さんから教えてもらったのよ。遠くへ旅立ってしまう友人へ宛てた歌で、お母さんも、お母さんのお母さんから教えてもらったって言ってた。私の大好きな歌」
「歌……?」
スレンは反芻する。
「ズウラが言ってた。人間は――」
その言い様はあまりにも客観的で、マリは首を傾げて、
「スレン、歌を知らないの?」
「さっき初めて聴いた。綺麗だと思ったよ」
「だったらもっと聴かせてあげる!」
思わず破顔して答えたマリだが、何か逡巡した後、勢い良く立ち上がってスレンに手を差し伸べた。
「そうだスレン、こっち!」
マリがスレンを連れてきたのは村外れの小高い丘の上だった。スレンが焼け野原にした草原とは、村を挟んでちょうど反対側に当たる。
「どうして外へ?」
カラッとした秋晴れ。ひんやりと冷たい風が、暖炉で温まった身体を撫でて気持ちが良い。先を行くマリは、スレンの問いかけに振り返り、にこりと微笑った。
「やっぱりこの歌は晴れ空の下で歌わないとね」
そう言ってマリは歌い出す。母が祖母から教わり、マリもまた母から受け継いだ別れの歌。
秋の澄んだ空気を揺らして伝わる柔らかな歌声に包まれて、スレンはマリのこれからを思った。マリは「ひとりになっちゃった」と言った。家族を失ったと。村にはたくさん人間がいるから、きっと誰かが助けてくれるのだろうけれど、ずっと傍にいる、スレンでいうところのズウラのような、家族のような味方はもういない。スレンは痛む胸を押さえつけた。同情心を持つほどスレンの感情はまだ複雑ではない。だからこの痛みは単純にスレンが嫌なだけだ。初めて自分に優しくしてくれた他人。辛い思いをしてほしくないと願うのは自然なことだろう。
”私の心はいつもお前に寄り添っているよ” ”空を見上げればお前を想うよ”
そんな歌を歌うマリに、スレンは徐々に心を傾けていった。そして初めて憐憫という感情を知る。
歌い終わるマリ。拍手をしたり指笛で讃えたり、そういうお決まりのリアクションを知らないスレンは、酷く真面目な顔をして立ち上がった。そして初めて知った感情への向き合い方を知らないスレンは、思いつくままの言葉を口にした。
「マリ、おれはマリの傍にいるよ」
マリが驚きに目を見張ったのはほんのわずかな時間だけ。彼女はすぐに、
「何言ってるの。スレンには目的があるじゃない」
と、呆れ顔で笑った。
魔道師に会う。そして悪夢の原因を探る。スレンが黄昏の森を出て、カロア村へ来た理由だ。
「あ……」
「それでも!」と、スレンが言い切っていれば、マリはこれからの未来に安堵の涙を浮かべただろう。しかし言い淀んでしまったスレンに彼女は「私のことを心配してくれてありがとう」と、笑みを深めたのだった。
「…………必ずまた来るから」
自分に言い聞かせるようなスレンの呟きは、秋の風が五月蝿くて、きっとマリには届いていない。
そして別れの時は訪れる。盗賊のいない今、スレンがカロア村に留まる理由はない。翌朝、村人に見送られたスレンは一路黄昏の森を目指した。
森を出て、人を知り、少し大人になったスレンは、村であった出来事を思い出しつつ、それでも一度も振り返らずに森を歩いた。
来る時と同じ道を歩きながら、あの時の自分はどんなだっただろうと確かめながら歩いた。
「そうだ。歌、どんなだったかな。確か……」
途中からはマリの歌を思い出して歌いながら歩いた。思い出せないところはなんとなくで続けた。
そうしていると、森の獣たちが遠巻きに自分を窺っていることに気がついた。狼も、鹿も、隔てなく、小さな栗鼠や狐たちはスレンの足元を走った。
「ははっ、歌って凄いな。うわあ、鳥たちも歌い始めた!」
スレンが獣たちと接する時、それはほとんどが狩りの時だった。だから恐れられることはあっても、今のように親しまれることはなかった。それだけにスレンは、今まで見たことのない獣たちの反応に顔をほころばせた。
やがて森が深くなると木漏れ日が届かなくなり、いつのまにか獣たちもその姿を消していた。スレンはほうと息を吐く。ようやく戻ってきたと、安堵したのだ。
すっかり歌い慣れた少しオリジナルな部分のある別れの歌を口ずさみながら黄昏の森へ入る。棲家にしていた大樹の根本に寝そべっていたズウラは、帰還したスレンの姿を見て目を細めた。
「懐かしい歌だね」
思わず歌うのを止めるスレン。
「知ってるの?!」
「ああ、もうずいぶん前のことだが、人間の少女が歌っているのを聴いたことがある」
マリの母か祖母か、あるいは祖母にこの歌を伝えた別の誰かだろうか。とにかくズウラが知っていたのが嬉しくて、スレンは無邪気な笑顔を見せ、その時の話をねだったのだった。
「――それで、森を出てみて何かわかったのかい?」
話が一段落するとズウラは、一人旅の成果を尋ねた。楽しく話していたスレンはその明るい表情を一変させる。そして真剣な面持ちでカロア村であったことを全て話した。
「どうしてその魔道師についていかなかったんだい?」
「それは……」
「怖かったのかい?」
言葉を探して沈黙するスレンに、ズウラは踏み込んだ一言を放つ。
「ッ……」
そしてズウラは、十二年前より自分自身に課していた役目を果たすべく言葉を続けた。
「行きなさいスレン、お前なら大丈夫。そのために私はお前を人間として育ててきたんだよ」
「ズウラ……」
初めて知る話だった。さらにズウラは優しくスレンの背中を押す。
「全部済んだらまた戻っておいで。お前の家はこの森で、家族はずっとここにいるからね」
どれだけ魔法に長けていても、スレンはまだ十二歳の少年だ。故郷を離れ、ひとり旅をすることに恐れを抱くのは当然のことだ。それでなくても、またカロア村での事件ようなことに出くわしてしまったらどうしようと、苦悩は尽きない。けれどスレンは力強く頷いた。帰る場所がある、待っている家族がいる。それはとても心強いことだ。皮肉にもカロア村の事件がスレンにそれを教えたのだった。
「きっと戻ってくるから」
そう言って再び黄昏の森を後にしたスレン。彼の背中を眺めながらズウラはため息を吐いた。
男子、三日会わざれば刮目して見よと言うが――
「ふん、まだまだ子どもだね」
スレンの冒険はここから始まった。
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