第13話 ミザリ

「森を抜けて南に向かえば海に出る。その海を森と反対方向に進むと大きな街があるはずだよ。潰れてなければね」


 ズウラの言葉だ。その街がアターシアたちのいるアニムかどうかは分からないが、とにかくスレンはその海沿いの街を目指すことにした。

 森の深部を抜けると、葉と葉の間から光ではなく雨粒が落ちてくるようになった。さっきまで晴れていたのだけれど、山の天気が変わりやすいのはここでも同じらしい。森を抜ける頃には雨脚はさらに強くなり、雨粒の葉を打つ音も賑やかというより五月蝿いくらいだ。

 普段の、つまり全裸のスレンなら雨に濡れることを厭わなかったが、マリから貰った服を着ている今は違った。雨具など持っていないスレンは、木々の隙間から見える草原を横目にしながら木の傘の中を行った。


 唯一知っている歌を歌いながら歩く。腹が減ったら獣を仕留めて飯にする。飯を食べると眠くなって、そのまま眠りについた。


 二日目の朝には雨は止み、全天が淡い青色に染まった。まだ水気の多い地面を踏むと、ふわりとした感触が足の裏に伝わった。


 三日目のことだ。たいしてかわり映えのしない山沿いを歩いていると、土の匂いに混じってツンと鼻につくような匂いがスレンの鼻孔をくすぐった。嗅いだことのないその匂いを辿って崩れた岩場を駆け上がったスレンは眇めるように目を細めた。


「あれは……何?」


 先日見た地平線よりももっとまっすぐな、いや、少し丸みを帯びているような気もする。不思議な真っ青に近づいていくと、その正体が巨大な泉であることがわかった。ただ森の泉と違うのは、水面がちっとも穏やかではないところだ。絶え間なく寄せては返すうねり。そしてスレンが一番驚いたのは水の味だった。


「うわっ、何だこれ?! ぺっぺっ!」


 喉が渇いたからと、水を掬って口に流し込んだスレンは、あまりの塩辛さに咳き込んでしまった。


「これっ、わかったぞ。そういえばズウラが海の水は辛いって言ってたな。これが海か!」


 ズウラの「海には見渡す限りの水がある」という話に半信半疑だったスレンは、目の前に広がる海のあまりの広大さにただ立ち尽くすばかりだった。


 旅はスレンに多くのものを見せた。いい加減水平線も見慣れた頃には、今度は寂れた遺跡を見つけた。積み上げられた石壁は、その隙間から雑草が生えていて、スレンにはそこが昔栄えていたのかどうかもわからない。

 さらに歩くと今度は黄昏の森くらいに魔力の濃い場所に出た。けれどそこは何千年も生きた大樹がそびえ立つ黄昏の森とは違い、言うなれば死界。貝殻や流木はすべて真っ白。生物の痕跡といえばたまに見かける獣の白骨死体だけだ。もしかしたらズウラのような存在がいるかもしれないと、スレンは考えたが結局この世の終わりのような光景が最後まで続いただけだった。


 そんな不気味な場所を離れて、一日ほど歩いた場所、綺麗な半円を描く湾のちょうど最奥に港街があった。


 その街はカロア村とは何から何まで大違いだった。街は巨大な壁で囲われていて、盗賊など入る隙間などどこにもないだろう。青い屋根に白い壁で統一されてる家々は、そこが海を愛する街だということがスレンにもわかった。そして規模だ。カロア村を最初に見た時、スレンは声を上げて驚きを表現したが、この街を見たスレンは、反対に言葉を失ってしまった。港には何艘もの帆船が停泊していて、遠くから見る限りでもカロア村の何十倍もの人々が行き来しているのがわかった。


 潮風に乗って聞こえてくる喧騒に耳を傾けながら坂を下ると、草や石が取り除かれている場所に出た、土地面がむき出しになっている場所は、どうやら街まで続いているようで、お誂え向きとばかりにスレンはそこを歩いた。


 街を取り囲む壁の下までくると、門の前に多くの人が列をなしているのが見えた。騒がしいが誰かが暴力を振るっているわけでもなさそうなので、スレンは警戒しつつも人だかりに近づいていった。すると、


「そこの怪しい子ども! 止まりなさい!」


 唐突に背後から警告されてスレンはビクリと肩を跳ね上げさせる。慌てて振り返ると、道から少し外れた草むらに転がる巨大な岩の上に赤い髪の少女が腰掛けているのを見つけた。

 スレンよりも少し年上だろうか、金色の瞳を好奇心に輝かせている。


「な、なんだよ」


 スレンが近づくと、少女はふわりと岩から飛び降りた。彼女のひらひらのスカートが翻り、健康的な太ももが顕になる。着地した彼女はスカートを抑えるが、慌てた様子はなく、むしろ挑戦的な上目遣いをスレンに向けた。普通の男子ならばギクリとするシチュエーション。だがスレンは彼女のチラリと見えた純白の下着よりも、警告されたことにドキドキして額に汗を浮かべた。スレンの反応が思い通りのものではなかったことで肩透かしをくらった彼女は表情を一変。少しハニカミながら可愛らしい咳払いをひとつ、少女は乱れた真紅の髪を手ぐしで梳かしながらスレンを横目で見て口を開いた。


「あなたフィアレンゼの人? 街の外で、それもひとりで何をしているのかしら」

「フィアレンゼってなに?」


 スレンは初めて耳にする固有名詞の意味を尋ねたが、少女は酷く呆れた様子でさらに質問をかぶせた。


「シフォニ王国、南部最大の貿易都市を知らないなんてどこの田舎者よ」

「黄昏の森だけど……」

「森? 聞いたことない名前だけど」

「そりゃ、おれがつけた名前だし」

「あんたねぇ……」


 スレンはいたって真面目なのだが、少女はからかわれているのかと、眉間の皺を深めた。


「そうか、ここはフィアレンゼっていうのか……。フィアレンゼ、フィアレンゼ」

「あらまあ……」


 少女はスレンの足元から頭まで滑るよう見て言った。


「でも、そのままじゃ街に入れないと思うわよ」


 都市壁があるような大都市では、必ず門兵による検閲がある。彼らの役割は多岐にわたるが、不審人物の除外も重要な役割のひとつだ。スレンは無知だが馬鹿ではない。カロア村が盗賊に襲われたことを思い出し、壁や門の役割にすぐに思い至った。


「どうして入れないんだよ」


 だが、自分が不審人物扱いされるとは思ってもいなかった。訝しげな表情を見せるスレン。少女にはそれがあまりにも可笑しくて、思わず吹き出してしまった。


「ふふっ、だってあなた見るから怪しいから」

「え、そうなのか?」

「子どもがひとりで壁の外をうろついてたら誰だって怪しいと思うわよ」

「おまえだってひとりじゃないか」

「私? 私は…………どうかしたの?」


 むくれっ面でスレンが指摘すると、少女はスレンの後ろを覗き込むように身体を傾けた。それにつられてスレンも肩越しに振り返えった。


「お嬢様……」


 神妙な面持ちで少女に声をかけたのは初老の身なりの良い男が立っていった。


「セバスチャン、どうかしたのかしら」


 セバスチャンと呼ばれた男はスレンを一瞥した後、少女に視線を向ける。少女はそれに頷いて答えた。


「お嬢様、商隊が襲われております」

「襲われている? こんな都市門の目の前で? 盗賊かしら」

「いえ、ただのごろつきですが……」

「護衛の傭兵はどうしたの」

「それが、やつらを見た途端逃げ出してしまいまして」


 大袈裟に肩をガクリと落とす少女。


「私は……行かないほうが良いわね。相手の目的は?」

「はい。なかなか利に聡いようで、積荷よりも商隊の長、お嬢様を要求しているようです」

「そう、困ったわね」


 小さな手を顎に当て、物憂げに考え込む少女。男と少女のやりとりを見て、スレンはある考えを閃いた。どうやら少女は門をくぐる手立てを持っているようだ。そして今、彼女の仲間が襲われているらしい。

 またかと、スレンは心のなかでため息を吐いた。しかし今は好都合。


「ならおれが――」


 スレンが少女の横顔に話しかけたその一瞬、視線を交わした彼女の瞳がきらりと光った気がした。


「――助けてやるよ!」


 しかしスレンは気に留めることもなく胸をドンと叩いた。


「あなたが?」


 少女の瞳は疑いの色を映してスレンを見つめている。やはりさっきの違和感は勘違いだったようだ。


「大丈夫かしら……まあ良いわ。私はミザリ。アニムで商いをしてるの。あなた名前は?」

「おれはスレンだ」


 スレンとミザリ、ふたりはセバスチャンに連れられ馬車へ向かった。

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