第96話 夢の続きを
叙任式が終わるとアニムに向けて即出発である。強行軍というほどではないにせよ、かなりの急ぎだ。何せ今現在もアカデミーでは講義が続けられているいるのだから。
帰りの車中でもひたすら勉強。勉強勉強勉強。歴史、神学、算術、アグニア語、魔法史、音楽、美術、舞踏、各種儀礼の作法など、魔道師として以前に、貴族として身につけておかなければならない教養も学ぶ。アカデミーへの編入前、アターシアとの地獄の五週間で教わった内容など、本当に最低限のことだったのだと、スレンは改めて思い知ることになった。
アカデミーでもスレンを待っていたのは穏やかな日常とは程遠い苛烈な日々だった。さすがに地獄の五週間のように部屋に缶詰にされるわけではないが、学ばなければならない科目は倍以上に増えたため、スレンは日に日にやつれていった。
「だ、大丈夫なのか?」
そんなクラスメイトを気遣ってくれるのは親友のアルトセイン。
「あ、ああうん。ちょっと最近寝不足で」
心配そうな表情を浮かべても『あの時』のように抜け道を教えてくれるわけではない。アルトセインもまた、スレンと一緒に二年生の春を迎えたいのだから。
「わからないことがあれば何でも聞くと良い」
だからできることはこれくらいだ。
「ありがとう」
座学では苦戦続きのスレンだったが、逆に実技は思いの外順調にカリキュラムをこなしていけた。ジフとの最後の戦いで、自分の魔力を使って魔法を発動させたスレン。咄嗟のことだったとはいえ、あまりにも鮮烈な出来事だったため、その時の感覚が強烈にスレンの中に根づいたのだ。自分の魔力を自由に移動させることができたのなら、あとは呪文を唱えるだけ。スレンの使える魔法数は飛躍的な伸びをみせた。
冬が明け、スレンの帯剣姿に魔法科のみんなが慣れ始めた頃、アカデミーで進級をかけた試験が行われた。スレンは全科目でなんとか合格をもぎとることができた。
「あら、意外と舞踏は上位なのね」
「ふふん」
「でも歌はギリギリじゃない」
「う、うるさいなっ」
いつものように図書館へ向かう途中、偶然出くわしたミルレットにいつものように軽口を叩かれる。まだ蕾もつかない骨ばった並木道。その先には見慣れた建物があって、玄関前の階段にはふたりを待つヨルヤの姿があった。
ヨルヤの実家であるファーロラーゼ家は取り潰しになった。家族はみんなイニピア王国に逃げたのか、今なお行方不明である。ヨルヤは国王陛下の養女となり、名をヨルヤ・オーグ・シャロレと改めた。王家に名を連ねることとなった彼女だが、ヨルヤ・エナ・オーグ・シャロレとならないのは、王位継承権を持たないからだ。王位継承争いとは無関係でいられる反面、王宮内での彼女の立ち位置はとても微妙なものだという。叛逆者の一族でありながら助命され、表面的には王女と同じ待遇で迎え入れられている。当然、それを良く思わない者も大勢いて、ミルレットも陰ながら気をもんでいるらしい。
図書館の前に静かに佇むヨルヤを遠目に見てミルレットは呟くように口を開く。
「あのこはいつもああだからわかりにくいけれど、きっと傷つくことも多いと思うの。誰からも腫れ物扱いだから」
社交界で、ヨルヤとスレンの関係を知らない者はいない。叛逆者の孫娘と平民上がりの魔道騎士の物語は、宮廷の使用人たちからすれば憧れの恋物語だが、貴族たちにとっては厄介事のタネでしかない。いかに治癒魔法を使えたとして、権威権力を尊ぶ宮廷貴族たちは触らぬ神に祟りなしとばかりにヨルヤを避け続けている。挙げ句、宮廷に流れるのは出所不明の下品な噂話だ。
以前、三人の間でその話が出た時、ヨルヤは「静かで穏やかな毎日を過ごしているのよ」と笑っていた。きっとそれは嘘ではないのだろう。もともと彼女はあまり他人に興味を示さないし、何より権力に振り回されるのは懲り懲りなはずだ。だからといってスレンやミルレットが何の心配もしないかというと、それはまた別の話。けれどヨルヤ自身が大丈夫だと言っている以上、手を出すのはお節介に過ぎるだろうか。
「大丈夫だよミルレット。野暮だなんて理由で知らないふりをするつもり、ないから」
スレンのその言葉にミルレットが目を丸くしたのは、頼もしさのあまりか、それとも意外だったからか。
「野暮だなんて言葉、貴方知ってたのね」
おそらく両方だろう。
■
アカデミーには二度の長期休みがある。前期終わりの夏期休暇と、学年末の春期休暇だ。休暇中は帰省する者がほとんどだが、スレンとヨルヤのふたりだけは相変わらず毎日図書館に足を運んでいた。スレンはもともとアカデミー暮らしだし、ヨルヤはわざわざ息苦しい王宮に帰る理由もない。とまあ、もっともらしい理由はあるのだが、結局のところすべては逢瀬のため。
外は春の陽気に包まれて、淡い春色の花が咲き乱れているというのに、薄暗い図書館の長椅子に並んで座っているふたり。それぞれ別々の本を読んでいても、スレンの右手とヨルヤの左手は繋がったまま離れない。
ヨルヤの小さな手。その温もりを感じてスレンが思い出すのはあの悪夢。
ああ、そういえば夢の中の女もおれの右側を歩いていたっけ。
もうずっと見ていないからスレンの中にあるのは感情の残滓だけ。きっとそれもすぐに消えてなくなるだろう。役目を終えた道標が長い年月とともに朽ち果て、やがて地に伏すように。
この日スレンはある決意をもって臨んでいた。いや、本当はずっと前から思っていた。エルベストルの廃城へ向かう時に気づき、講堂の戦いでヨルヤに誓ったこと。彼女は覚えているだろうか。
鼓動が高まっているのは緊張しているからか。思わず力が籠もるスレンの右手にヨルヤが反応して顔を上げた。
「どうしたの?」
スレンの赤い顔を覗き込むヨルヤ。スレンの手はみるみる熱を帯びていく。
「具合が悪いの?」
「い、いや、そうじゃないよ」
本当に気づいてないのか?
きょとんとした顔が憎らしくもある。エルベストルの廃城ではもっと恥ずかしいことを言っていた気がするのに、どうして今、たった一言うだけでこんなにドキドキするのだろう。ちっとも思い通りにいかない心に苛立つ。なぜか喉で詰まって出てこようとしない言葉。右手が汗ばんでいるのを悟られたくなくて、スレンは繋いでいた手を慌てて放した。
どうしてこんなに恥ずかしいんだ……!
頭の中がぐるぐるして、明り取りの窓から差し込む春の優しい陽の光にさえ苛立ってくる。ほんの先週まで寒かったのに、どうして急にこんなに暑くなるんだ。身体が火照っているのはきっとその所為なのだと自分に言い聞かせて、スレンはヨルヤに向き直った。
つぶらな琥珀色の瞳のなかに映る自分の姿。頭の中で混ざり合ってぐるぐるになっていた無数の色が、まっすぐなヨルヤの瞳に吸い込まれ、スレンの心にはどこまでも広がる空の色だけが残った。
「ヨルヤ。おれ、ヨルヤとつがいたい」
ヨルヤは最初、何を言われたのかわからなかった。スレンが何か言いたげだなとはヨルヤも察していたし、その内容もおおよそ予想できていた。
だってスレンったら、顔を真赤にしているのだもの。
なのに、ヨルヤがあどけない表情を作っていたのは、無垢だと思われたかったからだろうか。それとも、スレンの口からきちんと言って欲しかったからだろうか。
やがてスレンの言葉の意味が頭に入ってきて。今度はヨルヤの顔がみるみる赤くなっていった。恥ずかしくて顔を俯けるヨルヤの顔を、もう平静を取り戻したスレンが覗き込む。
「ど、どうしたんだ? 腹でも痛いのか?」
「ば、ばか」
スレンのそれは天然だとわかっているからこそ出た罵声だった。
何度か深呼吸して、なんとか冷静さを取り戻すヨルヤ。それでもなお赤らむ顔を上げて彼女は尋ねてみる。
「貴方、その言葉の意味をわかって言っているの?」
するとスレンはキョトンとして「男と女がひとつになるってことだろ?」と答えた。確かにそうだけれど、と言葉に詰まるヨルヤ。スレンは「ひとつになる」ことの意味をわかっているのだろうか。誰もスレンに教えなかったのだろうか。あるいは故郷での獣じみた生活のなかで知り得なかったのか。すっかり困り顔のヨルヤだが、自分の立場を理解してさらに再び顔を真赤に染め上げた。
これに返事をしなくちゃならないの?
こんな辱めはあるだろうか。だって、返事は決まっているのだから。まるで鯉みたいに口をぱくぱくさせて言葉を詰まらせるヨルヤ。ひとくちに言葉にするのは躊躇われて、少しずつ、零れ落ちるように彼女の口は音を発した。
「わ、わたしも、スレンと、その、つがい……たい」
途切れ途切れの返事だ。だがヨルヤの意思はちゃんとスレンに伝わったようだ。
ヨルヤが答えたと同時にスレンはヨルヤを抱きしめた。それはもうエルベストルの廃城で、二階から飛び降りたヨルヤを抱きとめたときよりも強く。
「ちょ、ま、まって、ここで?」
狼狽えるヨルヤ。それでも抱きしめる力を緩めないスレンに、抵抗を諦めたヨルヤは口を噤む。勤務中の司書のことを気にしたのだろう。もう煮るなり焼くなり好きにしてとばかりにヨルヤもスレンの背中に手を回した。
やがて、五月蝿かったふたりの鼓動も穏やかになって、ヨルヤは自分の考えていたことが思い過ごしだったことに気がついた。こんな場所で、そんな事をする覚悟までした自分が恥ずかしくなったけれど、こうして抱き合っていれば顔を見られることはない。
そんなふうに安心していたヨルヤだったけれど、スレンはヨルヤの鼓動がまた高鳴ったことに気がついていた。温かくて心地が良いヨルヤの温度にぼうっとしていたスレンはようやく思考を取り戻す。けれど気の利いたことは何ひとつ言えなくて、だからこれはスレンの、魂から溢れ出た言葉。
「今度こそ、ずっと一緒だから」
短く、「うん」と答えたヨルヤは笑っていただろうか。それとも泣いていただろうか。きっと、その両方だっただろう。
魔道師スレンと宿命のディストピア ふじさわ嶺 @fujisawa-rei
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