第40話 秘密の研究室
黒い長方形を手に取ると、予想通りひやりと冷たくて硬く、そして重たい。鉄だ。純粋な鉄の塊はたとえ煉瓦ほどの大きさでもかなりの重さになる。スレンは両手でしっかりと掴んで、鍵穴と思しき壁の窪みにはめ込んだ。
ゴトン
と音が鳴る。するとどういうカラクリなのか、書架ごと壁が回転して、大人がひとり通れるくらいの隙間が現れた。隙間は暗く、奥が通路なのか階段なのかもかわからない。三人は近くの壁掛けランプをひとつ外し、その灯りを頼りに暗闇の奥に進んだ。
階段を下り、狭い通路を縦一列になって進む。その場所に光のたぐいは一切なく、ランプの灯りを吸い込む闇が壁のように立ちはだかっている。その闇に立ち向かうように先頭のスレンは歩を進めた。手を壁に這わせ、確かめるように。
やがて足元に段差が現れ、見上げると目線ほどの高さに古びた木の扉が現れた。とうとう来たと、スレンは唾を飲み込む。
「罠に気をつけなさいよ」
後ろからミルレットの声。
「罠? 罠ってなんだよ」
「不当な侵入者を撃退する仕掛けよ」
「それはわかってるよ。そうじゃなくて」
「通路への入口にあんな仕掛けがあるのだもの、部屋の扉の前に罠が仕掛けてあっても不思議ではないわ」
「それはそうだけど」
「壁に変な穴とか空いていない? 踏んだら沈む床とか」
注意を促すミルレットに、さらに彼女の後ろから「そういうことは通路に入る前に言うべきだと思うのだけれど」と、ヨルヤの苦言が飛んだ。
ことさら注意深く扉付近を観察し、警戒しつつノブに手をかける。いざとなれば無詠唱だってなんだって使ってやると、スレンは覚悟を決めて扉を押した。
「ここは……」
「研究室のようね」
幸いにもミルレットが警告したような罠はなく、三人はあっさりと隠された部屋へと忍び込むことに成功する。そして目にしたのは、アターシアの研究室のような、いやそれよりももっと酷い、山積みの本、丸められた羊皮紙に筆記用具が散乱した埃っぽい部屋だった。ヨルヤの言葉通り、スレンの印象通り、そこはまさに研究室。だがアカデミーの各所のように使用人たちが掃除している様子はなく、そのため埃っぽく遊々とした薄気味悪い雰囲気が満ちていた。
「あれじゃないかしら」
ミルレットの指差す方へ目をやると、一箇所だけ壁の石の抜けているところがあった。『光る石壁』の正体だろう。
「けれど、一体なんの研究室なのかしら」
ミルレットは机に広げられた資料に歩み寄る。スレンも釣られるように机を覗き込んだ。
「これはこの国の地図ね」
「印がうってあるな」
地図はアターシアとの地獄の五週間で見た。だが、後で付け足されたと思しき印が何を意味しているかはわからない。しかしスレンの隣でうんうん唸っているミルレットには何か思い当たる節があるようだ。そんな彼女を差し置いてヨルヤが即答する。
「原色地ではないかしら」
ヨルヤの白魚のような指が地図上の印をなぞる。
原色地。それは自然界で特に魔力の濃い一帯を指す。属性にはそれぞれシンボルとなる色が定められていて、その色がより鮮やかな場所、という意味で原色地と名付けられた。例えば黄昏の森や、スレンがカロア村からフィアレンゼへの道中に通った真っ白な荒野がそうだ。それがフィアレンゼの近くにあったのは偶然ではない。濃すぎる魔力は生命にとって有毒だが、薄すぎても生きてはいけない。だから人は古来より、原色地の近くの、しかし濃すぎず十分に魔力の満たされた場所に集落を作ってきたのだ。ここ魔法都市アニムのそばにも、アヌの森という生命属性の原色地がある。アニムのシンボルである大樹はその森を意味していた。
「原色地を研究しているのかしら。けれど、だとすればコソコソ隠れる必要なんてないじゃない」
「いいえ、ミルレット。違うわ」
これを見て、とヨルヤは傍にあった本を指す。その表紙は、スレンには見覚えのない文字で書かれていた。
「これは古代ネユタ文字かしら?」
「ミルレット、読めるのか?」
「読めないわよ。学ぶことすら許されていないのだから。ヨルヤ、貴女はどう?」
ヨルヤも黙って首を横に振った。君子危うきに近寄らず。ふたりの立場なら教材を手に入れることは可能だろう。だがそれを実行するほど愚かではない。
そんな物騒な書物が積み上げられた部屋のなか、たった一冊だけ、シフォニ語で書かれた本があった。まだ新しく、表紙も擦り切れていないその本のタイトルは『血中魔力の親和性と、XXXの可能性』というものだった。後半の数文字は、何度か書いては塗りつぶしたような跡があるだけで解読不能だった。作者でも上手い言葉が見つからなかったような、そんな印象を受けた。
血中魔力という言葉から想像されるのは、血液を魔法の源として扱う異端者キャイル・イルーゼだ。この本は彼らについての本なのだろうか。しかしそこから繋がる言葉が不穏で仕方がない。消された文字も。いったい何の可能性を、作者は見ているのだろうか。
「これは写本ね」
これなら読めると、スレンが本に伸ばした手をヨルヤが横から掴んで止めた。
「読んではいけないわ」
脅すようなヨルヤの目つき、スレンはゴクリと唾を飲み込んだ。ミルレットも神妙に頷いていた。
本の内容も、タイトルの意味も、推察するには三人にはあまりに知識がなさすぎた。だが唯一わかることがあった。それは、
「そろそろ出ましょうか」
関わらないほうが良いということだ。
こんなきな臭い場所に長居は無用だと、ミルレットは言外に含ませる。当然スレン、ヨルヤに異論はなく、三人は自分たちの訪れた痕跡を念入りに消した後、隠された研究室を後にしたのだった。
復路は往路とは違い、足早に、そして三人は無言だった。あの不気味な研究室にあったのは底知れない不吉。それから逃げるのに必死だったのだ。かくして三人はあっという間に図書館へと帰還を果たす。
図書館を出ると未だ太陽はその色を黄金に輝かせたままだった。ずいぶんと時間をかけてしまったと、スレンはアターシアに対する言い訳すら考えていたのだが、実際はそれほど時間は経過していなかったようだ。
互いに今日のことは他言無用だと確認しつつ、図書館の前で、スレンとヨルヤとミルレットは別々の方向に歩き出す。
自分たちで掘り起こしておいて今更だが、やはりミルレットを止めておくべきだったとスレンは後悔していた。正直な話、禁術がどうとか異端がどうとかはスレンにとって取るに足らない問題だった。そもそも禁術や異端というのはアーグ教で定められたものでしかないからだ。だが、ヨルヤやミルレットにとっては、それが絶大な影響力を持つことは嫌というほど知っている。だからスレンは後悔していたのだ。それが原因なのかどうかは不明だが、スレンはこの夜、あの悪夢を見た。
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