第28話 図書館の君

 森を出た当初の目的はひとまず解決を見た。ならば次の目標をひたむきに追うことができる。さしずめ読み書きの習得である。アターシアから図書館へ行けとアドバイスを貰ったスレンは、授業終わりに早速足を伸ばそうと考えていた。


「どこへ行くんですか?」


 教室を出たところで、背中から呼び止められたスレン。どこか剣呑さを帯びたその声色にビクリと肩を震わせ、後ろめたいこともないのにギギギとぎこちなく振り返った。ふたつ結びの金髪は柔らかな印象、しかし彼女の菫色の瞳はジロリとスレンを睨んでいた。


「スレーニャ……」

「どこへ行くんですか? 一応、貴方を監視するようにアターシアから言われているので教えてください」


 身も蓋もない言い方から、彼女が堅物であることが伺える。真面目なのだろうけれど、いったい誰に似たのか。


「と、図書館だよ……です」


 スレンは、スレーニャが自分に良い印象を抱いていないことを知っていた。今となってはわかる。きっと最初に泉で会った時が原因だと。あの時自分は全裸だったから。それに、その後アカデミーで起こした事件のこともある。きっと警戒されているのだろう。最初から信頼なんてものはなかったけれど、それでもこれ以上の関係の悪化は避けたいところだ。どうすれば信頼してもらえるのかはわからない。だからせめて偽ることはよそうとスレンは考えた。それと、まだまだ苦手だけど、言葉遣いも丁寧なもののほうが良いだろう。アルトセインは普段のままで良いと言ったが、彼とスレーニャは別人なのだ。


「図書館……ですか。文字を勉強するんですか?」


 スレンが読み書き不能だということは、すでにルニーアクラスの共通認識である。


「そうです」

「……道はわかるのですか?」

「はい、アターシアに教えてもらいました」

「……そうですか」


 なぜだ。スレーニャの訝しげな表情がどんどん深まっていく。


「……」


 スレーニャはスレンをじっと見つめた。


「なっ、なんですか?」

「い、いえ、なんでもありません!」


 何か粗相をしたのだろうかと、スレンが不安げに尋ねると、なぜかスレーニャの方が取り繕うような態度を見せた。スレンは首をひねる。なんでもないなら良かったが、いったいどうしたというのか。


「もう、行っても?」

「はっ、はい、呼び止めてしまってすみませんでした」


 スレンは深々とお辞儀をしてスレーニャに背を向ける。そして安堵と開放感を感じつつ、いざ図書館への一歩を踏み出し――


「ス、スレン!」

「!!?!」


 完全に油断していたスレンは、予期せぬ呼び止めにびくりと肩を震わせた。


「な、なんですか?」


 恐る恐る振り返るスレンに、スレーニャはなんともいえない苦々しい顔を向けていた。呼び止めたというのに沈黙している彼女は、何かを言おうとして、けれど躊躇っているように見える。

 不思議に思ったスレンがスレーニャに声をかけようとした時、彼女は目を伏せ呟くように言った。


「……気持ち悪いので、普段どおりでいいです」


 一瞬、なにを言われたのかわからなかったスレン。ぱちくりと、数回瞬きをして、ようやくスレーニャの意図を理解する。


 ああ、スレーニャにも丁寧な言葉づかいは必要ないってことか。


 そして遅れて湧き上がる感情。


 何だよそれ……。


 せっかく苦労して身につけた礼儀作法だというのに、気持ち悪いとはまったくひどい言い様である。




 アターシアの言ったとおり講義棟を出て中庭をまっすぐいけば、色づいた銀杏並木の向こうに比較的新しい建物が見えてきた。図書館だ。数百年前に建造された無骨な城塞を学園として利用しているアカデミー本体と違って煉瓦造りの図書館はいくらか垢抜けた印象をもてる。建築様式が違うのは、図書館だけ後になって建てられたからだろう。

 大階段を上がり、エントランスへ。入ってすぐのカウンターに図書館の管理人となる司書がいるのだが、そんなものよりもスレンは迫りくるような大量の本に目を奪われた。本はアターシアの研究室で見たことがある。残念ながら読めやしなかったけれど、挿絵のおかげでそれが薬草に関係する本だということはわかった。他にもたくさんの本があった。けれどこの図書館という場所は、アターシアの研究室など比べ物にならないくらいの本が並んでいて、その膨大な蔵書に、スレンはポカンと口を開け、言葉もなく唖然としていた。それはもう、


「そこの学生」


 と、呆れた司書に呼びかけられる始末。


「は、はいっ!」


 我に返ったスレンは、司書が手招きしているのに応えてカウンターへと進んだ。

 司書は眼鏡をかけた若い男性の魔道師だった。スレンが前に立つと、目を細めてスレンのタイを見つめた。


「キミは……ルニーアクラスの一年生だね。初めて見る顔だけど、本を持ち出す時のルールはわかっているかい?」


 一年生は一番目の神――雷を司るザルラの象徴する色である紫のループタイを身に着けている。そしてブローチに刻まれた大樹はルニーアクラスの意匠だ。


「ルール?」


 疑問符をつけて反復するスレンに、司書は鷹揚に頷いた。


「そう。ここの蔵書は王国のすべての知識が集まっているといっても過言ではないくらい貴重なものも多いんだ。だから誰彼構わず持ち出しても良いわけじゃない。その服装でキミが何者かはわかるけれど、誰なのかはわからないから、本を借りて外に出るときは必ず私に申告すること。そして貸出リストにサインすること。わかったね?」

「サイン……」


 アターシアが言ってた。サインってのは自分の名前を書くことだ。何かに同意したり、誰の責任かをはっきりさせる時なんかに使うらしい。


 スレンは「しばらくは図書館でしか勉強できないな」と内心で項垂れながら「わかっ――りました」と苦笑いを浮かべた。そしてそそくさと奥に進もうとして思い出す。


「あ、あの」

「ん、まだなにか?」

「挿絵付きの本ってありますか?」







 スレンは図書館の奥へと進む。


 スレンの質問を受けた司書は困惑した。挿絵付きの本などそれこそ山のようにあるからだ。ざっくばらんなスレンの質問に、よもやシフォニ語を勉強するための辞典を探しているとは夢にも思わない司書は、スレンが一年生で教わるアグニア語の辞書を探しているのだと考えた。ゆえに、スレンが向かっているのはアグニア国の史料が格納されている区画だ。そうとは知らずに期待の本があることを確信するスレンは、どんどん奥へと歩いていく。図書館は広く、しかし奥に行くほど狭く薄暗くなっていく。点在するランプの灯りを頼りにスレンは、言われたとおりの道順を辿った。


「えーっと、次の角を右で……階段を上がってすぐ左。それから――」


 それから最後の角を曲がるスレン。そこで彼は、設えられた長椅子に腰掛けている少女を見つけた。


 太腿まで垂れたまっすぐの黒髪が、彼女の横顔を隠しているが、後から来たスレンの存在に気づかないくらい手元の本に集中しているようだった。邪魔をしてはいけないと、スレンは目的地をすぐそこに、しかし踵を返してしまう。そのナイーブさといったら、今まで全裸で生活し、あまつさえ一切の抵抗なく人前に肢体を晒していた者とは思えない。存外、アターシアやスレーニャ、以前のスレンを知る者たちの予想よりも早くにスレンは人間になることができるかもしれない。ただ、異性とはいえ顔見知りへの態度ですらこれであるなら、不特定多数の女子生徒の脳裏に自分の局部の形を刻み込んだ事実を思い出した彼の精神が、崩壊しないことを祈るばかりだ。


「本を探しに来たのではないの?」


 立ち去ろうとしていたスレンは、背中から少女に呼び止められた。ギクリと肩を震わせるスレン。本日二度目の出来事に、間の悪い自分を恨み、迂闊さを後悔する。そして平静を装って振り返り、それからスレンは瞠目した。


 彼女の膝に載せられていた緑色の装丁の大きな本は閉じられている。本から離された視線はこちらを見上げている。円な琥珀色の瞳はランプの灯りを映して、その深さをより増している。見透かされているような気がして、スレンは恥ずかしくなって視線を下にずらしてしまう。


 彼女との邂逅は滝の落ちる泉だった。そしてカロア村でも彼女を見かけた。黒髪が艶やかな少女だった。あの時は旅の装い。今はアカデミーの制服――男子のそれと違うのは、タイではなくリボンを襟元に結んでいること。そしてシャツとズボンではなく、ブラウスと膝丈のドレスというところだ、黒が基調なのは変わらないが。彼女は確か――――ヨルヤ。教室にいなかったということは、別のクラスだろうか。本を探しに来たのではないのかという質問への返事もせずに、そんな取るに足らないことを考えているスレンに、ヨルヤから言葉が投げられる。


「エッチ」


 言葉の意味はわからない。けれどなぜか、顔を上げて彼女の顔を見るのが怖かった。

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