エピローグ

 ――2039年11月3日。


「……もう、治らないのか……」


 病室。その空間は白で覆い尽されている。白い壁に白いベッド、白いカーテン……まるでこれから死人に授ける、死に装束の色を彷彿とさせていた。

 一つのベッドに、一人の女性が身をしている。艶やかな黒い髪が、この白い部屋と正反対の印象を与える。面相は美しく、患者衣から覗かせる肌は部屋と同じ位に白い。


 神塚安奈かみづか あんな。それが彼女の名前だ。


「仕方がないもの……難病な上に、余命もない……。お医者様でさえお手上げなのよ……」


 女性がその瞳を、隣の男性に向けていく。

 彼女より年上であろう男性――名前は神塚喬彦。安奈の夫であり、彼女にとっての最愛の人。


 辛そうに口を噛み締める彼。その理由は安奈にあり、そしてどうする事も出来ない。

 

「そんな事は分かっているさ……今の医学でも治せない……余命も五カ月……だから安楽死させるしかない……。

 でも僕は……」


 顔を手で覆い尽す。悲しみにこらえているのが、痛い程に伝わって来る。

 神塚安奈は不治の病に侵されていた。きっかけが喬彦と交わした『ある事』――その日を境に難病が発症し、今のように寝たきりの生活を送っている。


 もう変えようがない事象。例え神に祈っても治る事は出来ない。故に安奈は、これから迫って来る『死』を受け入れる準備が出来ている。

 しかし夫は、喬彦は、そうではなかった。

 

「……僕は……やはり受け入れられない……。何もお前が……お前でなくても……」

「…………」


 安奈と喬彦の出会いは、城北大学で始まった。

 教授に就任して間もない喬彦を、助手として駆け付けた学生が安奈である。共に生物学を学ぶ内に、いつしか『恋』が二人の間に結ばれる。

 やがて結婚し、家庭を育もうとした。しかし突然の病が、二人の愛を無慈悲に切り裂いてしまう。


 最悪だった。これから幸せな家族を築こうとしたのに、どうしてこうなってしまったのか。神は二人に何をしたというのか。

 少し前は安奈もそう考えていた。だが迫り来る死を感じて、いるはずのない神の事を考えるのはやめた。

 しかし喬彦は別である。未だに彼は、その運命を呪っているのかもしれない。


「……こんな事なら……僕がわずらった方がマシだ……。そうしたらお前が……!」

「んん……」


 喬彦が言った時、艶めかしさの感じる声がした。

 声がした真下を覗く安奈達。そこにはベッドに横たわった、黒髪の幼女がいたのだ。 

 二歳児とは思われる彼女が、二人をよそに安らかに眠っている。顔つきと髪型が非常に安奈に似ているが、それもそのはず安奈達の娘なのだ。


 不治の病は、この美しい娘を産んだ際に発症したのである。まるでそれは、生と引き換えに死を得る生命のサイクルのようであった。

 

「……」


 娘の髪を、優しく撫でていく安奈。伝わる柔らかい感触……まさしくこの子は『生きている』。

 これから『死に向かう』安奈とは、まるで違う。


「……喬彦さん、約束して……」

「……安奈?」


 安奈が、娘から喬彦へと向く。

 その瞳には、覚悟があった。そして……どこか優しかった。


「……必ずこの子を守って……。私が死んでも……どんな事があっても……この子を何があっても守ってみせると……約束して……」

「……安奈……」


 儚い想いを、大切な我が子を、最愛の夫に託す。

 安奈が死んだ後、その想いが成就するのか分からない。もしかしたら最悪の方向に向かうのかもしれない。


 それでも安奈は彼を信じた。例えあの世に行こうが、彼をいつまでも信じる。


「…………」


 彼女が繊細な手で、眠る娘の頬を撫でる。

 もうこれが、彼女に触れる最後の機会なのかもしれない。だからこそ、悔いのないように触れて、そして伝える。


「……お母さんがいなくなっても……優しい子でいるのよ……。友達を絶対に裏切らず……友達を愛する……優しい子に……。

 お母さんとの……約束よ……」


 耐え切れなくなってしまった。安奈の瞳に、涙が零れていく。

 涙が落ちる先は、愛する我が子の頬。しかし彼女は涙が零れても、安らかな眠りに就いている。


 それでも安奈は願った。娘が、優しく誇りのある人間でありたいと……。




 ===



 

 ――2064年11月3日。


 闇の世界。その空間は黒で覆い尽されている。

 ここは深海の底である。光が入り込まない過酷な世界は、まるで何もないあの世を彷彿とさせる。その世界に生きるのは深海生物だけ。過酷な世界に適応した、地上と異なる存在。

 ただ深海生物と言えども、ある区域だけは一匹もいなかった。理由は不明だが、強いて言えば巨大な物体が存在する事位か。


 巨大な物体は、うつ伏せになっている。爪があるし、牙もある……それは物体が生物である事の証明にもなりえるのだった。

 これはかつて生きていた。かつて海上で災厄をもたらし、そして海に沈んでいった。その災厄から十年は経っているが、未だ腐敗する事無く存在している。


 ――ゴボ……。


 突如として、その場に泡が噴き出していく。

 直後として鳴り響く、膨大な地響き。全てを震わす災害が、巨大な生物の周囲を振動させた。


 プレートの移動によって起こった物だ。それが海底を揺らせながら粉塵を舞い上がらせ、そして生物の下に亀裂を入れてしまう。

 亀裂が海底の砂も、岩も、生物を飲み込む。その姿がゆっくりと埋もれていき、完全に姿を消えさせてしまう。






 その生物が、瞳で上を見ていたのを、






 その目が埋もれ、姿を消滅させたのを、






 少女の魂が、未だ囚われているのを、

 














 誰も、知る事はない。

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悪逆の機獣無法者《アーマーローグ》《KRF優秀作品》 ミレニあん @yaranaikasan

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