雨垂れの憂鬱

 早朝。


 まだ暗いうちに起き出した私はふんふんと機嫌良く鼻歌まじりにリンゴとニンジンを刻み、それに大麦を一掴み混ぜる。超低血圧の私が五時前にベッドから這い出る理由はただひとつ。朝乗馬だ。

 性格上の問題のためか、団体競技は非常に苦手とする私だが、スキー・スケート・陸上等の個人競技は大好きだ。中でも乗馬は格別。高校時代に始めて、一時期怪我のためにやめていたのだが、最近また始めた。今は乗馬クラブの馬を個人リースしているので乗りたい放題。食事と睡眠を削ってでも馬には乗る。

「睡眠どころか命削ってますね……」と言われる事もしばしば。

「乗馬関係で死んでも本望だったと思って下さ〜い」と人々には伝えてある。

 ブーツを履き、私を待っているであろう我が愛馬達のことを想い、ランランとスキップしながら玄関を開けた途端、身体が凍りついた。


 ……雨が降っている。


 雨が嫌なわけではない。馬場が滑るので障害ジャンプなどは出来ないが、屋内馬場で馬術をすれば良い。私は障害も馬場馬術ドレサージュも好きだ。雨が問題なのではなく、雨と共に出没するモノが問題なのだ。


 ナメクジ。


 我が天敵。生きとし生けるモノなら何でもオッケーな私の唯一の弱点だ。ナメクジという名前からしてねっとりとおぞましい感じがして嫌だ。字も見たくない。姿なんか想像したくないし、実際にあの奇怪な姿を目にしてしまうと吐き気を催す。もしゴキブリと回虫が蠢く風呂とナメクジの風呂のどちらかに入らなければならないとしたら、私は迷わずゴキ回虫風呂を選ぶ。回虫風呂など健康に非常に悪そうだが、しかしナメクジ風呂なんか入ったら精神が崩壊して廃人化する。

 そんなに嫌ならエッセイなんかに書くなよ、と思われる方も多いと思うが、本日は余りにも衝撃的な経験をしてしまったので、それを誰かに伝えたくて仕方が無いのだ。


 しとしとと雨が降る季節、私は非常に用心深くなる。だってアレを間違って踏んでしまったりしたら、このブーツが二度と履けなくなるではないか。ってか、ショックで心身に歪をきたす。恐る恐る辺りを見廻し、ギギャーーーッと悲鳴を上げた。いた。黒っぽいのが二匹。それも外ではなく家の中の玄関のタタキに!

 絹を裂くような我が悲鳴に、ドドドドドッと階段を転げ落ちるようにして寝惚け眼のジェイちゃんが現れた。

「ど、どうしたの?」

「アレッ!! アレがいるッ」

「え? あぁ、ナメちゃんね」

 私の指差す先を見て、ジェイちゃんがニヤニヤと笑う。ジェイちゃんが私の優位に立てる数少ない瞬間だ。

「早く外に出してよッ」

「え〜、今ティッシュ無いから、後でね」

「ちょっとっ!怒るよッ」

「もう怒ってるじゃん」

 そうこうするうちに、何事かと様子を見に来たエンジュが玄関を這うナメクジに気付き、興味深げにふんふんと匂いを嗅ごうとする。

「エンジュッ」

 私に怒鳴られ慌てて逃げ出そうとしたエンジュが真後ろにボンヤリと突っ立っていた吹雪にぶつかりそうになる。デカイ犬が二匹、狭いタタキで右往左往して、吹雪がナメクジを踏みそうになる。本気でブチ切れる私。連続殺人犯の目付きになった私をジェイちゃんが慌てて玄関から押し出す。

「わかったわかった、片付けておくから、早く乗馬行ってきなって」

 下僕から対ナメクジ用の騎士へ臨時昇格したジェイちゃんに後を任せ、小雨の中、乗馬クラブへ向かった。


 それにしても何故私はここまでナメクジを嫌うのか。原因は幼少期の心理的トラウマにある。

 幼稚園年中さんの頃、私はナメクジとカタツムリの区別がつかなかった。

 臆病で家を離れることの出来ないヒッキー気質なのがカタツムリ、家を捨て旅に出ている冒険心溢れるのが殻無しカタツムリ(= ナメクジ)だと思っていた。

 当時どちらかというと大人しくヒッキー気味だった私は勇敢な冒険者たる殻無しカタツムリに憧れ、殻付きより殻無しを可愛がっていた。鉢植えの下で見つけた全長5ミリ程の極小ナメクジをチビちゃんとか名付けてプラスチックのザルで囲って飼おうとしていたのは嫌な思い出だ。

 そんな梅雨のある雨の日のこと。

 幼稚園から帰ってきた私は母に、「カタツムリを捕まえてくる」と宣言すると傘を差して庭に出た。庭の隅にしゃがみ込んだまま一時間近く動かない私に、母は「カタツムリなんか殻をひょいっとつまめばいいだけなのに、なんであんなに時間がかかるのかしら」と思っていたらしい。そう思ったら放っておかずに見に行こうよ、お母さん。

 そして一時間後。

「ママ見てぇ、カタツムリさんいっぱいいたぁ」と満足気に差し出された愛娘の手元を覗き込んだ母は息を飲んだ。

「……イイイイズちゃん、あのね、そ、それは、カタツムリじゃなくって、ナナナ、ナメクジ……」

 これでもかと言う程デップリと大きな七匹のナメクジを見つめ、母が震える声で呟いた。彼女曰く、娘を驚かせないように必死で悲鳴を上げるのを堪えたらしいが、しかし子供は親の恐怖に敏感だ。母の開き切った瞳孔に浮かぶえも言われぬ恐怖を如実に反映し、私は後ろ向き卒倒しそうになった。

「はやく、はやく捨てなさい……!」

 ナメクジに触りたくなくて完全に逃げ腰の母に急かされ、懸命に手を振り回すが、その程度ではねっとりと張り付いたナメクジ達は取れない。ナメクジは捕まえるのも逃がすのも大変なのだ。焦る私。家の中から急かすばかりで決して手を貸そうとはしない母。ようやく全部取れて、半泣きで家に入ると待ち構えていた母に台所に連行され、鍋の底を洗う金属タワシでゴシゴシと手を擦られた。しかし七匹分のヌメリは中々取れない。

 柔肌がアカ剥けになりそうな勢いで金属タワシでゴシゴシされた挙句、私に触れたという理由で母からバイオハザード認定されゴミ箱に捨てられたタワシを見て、当時五歳だった私は心に深い傷を負った。


 以来私は此の世におけるナメクジの存在を認めない。

 あのグロテスクな姿、アレは絶対に地球外生命体だと思う。それにしてもあのトラウマ経験さえ無ければ私は怖いもの無しの無敵だったのに、実に残念だ。私の心の傷は一生癒えないのだ。母よ、全て貴女の責任だ。

 そんなことを考えつつ、小雨の降る中、我が愛馬一号のブルックリンをグルーミングしていた。朝っぱらからキモイモノを見て過去のトラウマを思い出してしまったが、しかし艶やかな馬体を撫でていれば心も安らぐ。運動後のおやつをバケツに入れてブルックリンの前に置き、馬房に何か取りに行って戻って来た時、私はソレを見た。


 最初は誰かがバナナの皮をブルックリンのバケツに投げ入れたのかと思った。ブルックリンはバナナの皮が嫌いなのにな〜、と思いつつバケツに近付き、私は一瞬思考が停止した。心臓も一瞬停止した気がする。


 皆さん、バナナスラッグというモノをご存知でしょうか。

 その名の通り、熟れたバナナのように真っ黄色で、そして本当に全長がバナナくらいある巨大ナメクジだ。大きいモノでは25センチにも達する。大学の生物学の授業でバナナスラッグを食べるキングスネークと食べないキングスネークの違いを実証する実験で、ぶつ切りジューシーなバナナスラッグを飲み込む蛇のビデオを見せられて吐き気を催したことはあるが、しかし実物を見るのは初めてだった。


 うねうねウゾウゾとブルックリンの林檎に忍び寄る真っ黄色の地球外生命体。

 それは此の世のモノとは思えない不気味さだった。


 甲高い悲鳴と共にプロのサッカー選手並みの勢いでバケツを蹴り飛ばし、散乱したリンゴを食べようとするブルックリンを引き摺るようにして明後日の方向へ逃げた。ショックの余りその後の事はよく覚えていないが、取り敢えずバケツはバイオハザード認定して捨てた。

 その夜はナメクジの這うバスタブでシャワーを浴びる夢をみた。

 最初から最後まで呪われたような一日だった。




 ちなみにカリフォルニア州立大学サンタクルーズ校のマスコットはバナナスラッグだそうです。

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