納豆

 我が家にはダイニングテーブルがない。食事はコーヒーテーブルを使っている。つまり食べ物の皿が犬の顔の真ん前に並べられるというわけだが、特に問題はない。

 皿を並べ始めると吹雪は部屋の隅に置かれた自分のベッドに伏せる。食事中、デカイ犬にうろつかれては食べ物に毛が入って迷惑なので、そのように躾けた。

 エンジュは少し離れたところに座って食事風景をじっと見つめる。ヒトが食べ物をこぼせば私から自動掃除機化のお許しが出るので、それを期待しているのだ。ちなみに複数のヒトがいる場合、必ず一番食べ方の下手な人物のそばに待機する。

 家に食事に来る友人で、「あ、見て見て! エンジュが僕のそばに来た! 初めてだ! カワイイ〜♡」などと喜ぶヒトがたまにいる。ごめん、それ単に君がこの中で一番食べ方が下手だって思われてるだけだから。


 食後、私が皿を片付けないまま部屋を出てもエンジュは決して皿を舐めたりはしない。ただひとつの例外を除いては。


 その例外とは納豆だ。


 ある日のこと。

 ふとテーブルを見ると、昼食に食べた納豆のお椀がやけに綺麗だった。少し不思議に思いながら皿を洗う。いつもならヌルヌルするお椀がその日に限って簡単に綺麗になった。

 翌日、乾燥納豆をオヤツに食べつつソファーで寝転んで本を読んでいた。少しうとうとして、ハッと気がつくと、乾燥納豆の小さな袋がテーブルの下に落ちていた。窓を開けていたし、風かな、と思い余り深くは考えなかった。もうひとつ袋を開けて食べかけ、数分後にバスルームに行った。帰ってきたら袋は再びテーブルの下。中の乾燥納豆も無くなっている。


「エ〜ン〜ジュ〜〜」


 ベッドの下に隠れていたエンジュを引き摺り出し口の臭いを嗅ぐ。微かな納豆臭。叱りつつも不思議に思った。エンジュは、たとえローストビーフでもテーブルの上のモノに手を出したりしない。なのになんで納豆? 私が隣で寝ているのに、そんな危険を犯してまで納豆が食べたいのか?

 この話を聞いた獣医学校のある教授は、「コヨーテはバッファローの肉を地面に埋めて、腐りかけた頃に掘り出して食べたりするよ」とか言っていたが、真実は謎だ。

 これも育ちよりうじの一端なのか、それとも単なる彼女の個人的嗜好なのかは分からないが、その日以来、エンジュも味付け前の納豆のお相伴にあずかるようになった。ヒトのモノなど無闇にやるべきではないのだが、まぁ納豆なんて滅多に食べるモノでもないし、これくらいの楽しみが犬生にあってもいいだろう。私はエンジュに甘いのだ。


 先日、久し振りに冷凍納豆を買ってきた。

 昼食に食べようと電子レンジで解凍していると、ソファーで寝ていたエンジュが飛び起きてキッチンに駆けつけた。期待の眼差しで私の一挙一動を見守るエンジュ。もう何年も食べてないのに、よく憶えているなぁ、と感心する。

「何この臭い?」

 ジェイちゃんが顔をしかめつつ台所に入って来た。

「納豆食べようと思って、今レンジで解凍したの」

「ナットウ?」

「うん、発酵した豆だよ。健康に良いんだよ。ジェイちゃんも食べる?」

 ふ〜んと首を傾げつつジェイちゃんがレンジから納豆を取り出した。

「……凄まじい臭いだね」と眉根をひそめ、それでも試しにひと口食べてみようと思ったのか、ジェイちゃんがスプーンで納豆を突ついた。

「……ってちょっとっ! コレ腐ってるよっ?!」

 ねば〜っと糸を引いた納豆を見てジェイちゃんが悲鳴を上げた。

「だから発酵した豆だって言ってるじゃん。チーズやヨーグルトと同じだよ」

「全然違うっ! チーズやヨーグルトは糸を引いたりしない! こんなの発酵じゃなくて単なる腐敗だッ」

「食べたら美味しいんだよ。健康食品」

「嘘だ! それは絶対プラシーボ効果だ! 腐ったモノを食べて健康になるとは思えない!」

「まぁそう言わずにひと口食べてみなって」

「絶対イヤ、いらない」

 私がかき混ぜるネバネバ納豆をおぞましげに見るジェイちゃん。絶対イヤと言われると無理にでも食べさせたくなる。

「ジェイちゃんさ、いつも『僕は日本食が一番好きだ〜、胃袋だけはジャパニーズなんだ〜』とか言ってるじゃん。納豆は日本人の食卓には欠かせないんだよ? エンちゃんは納豆大好きだよ? ジェイちゃんもこの味がわかったらジャパニーズ胃袋だと認めてあげよう」

 むむむ、と唸るジェイちゃん。しばらく悩んでいたが、ひと粒位ならイケると思ったのだろうか、スプーンですくって口に入れた。二秒後、奴はウッと呻くと流しに納豆を吐き出し、何度も口をすすぎ、それでも足らずバスルームに駆け込んで歯を磨いた。


 勝負あり。エンちゃんの勝ち。


「フフン、似非えせジャパニーズめ」と笑いながら少量の納豆をスプーンですくってエンジュの皿に入れてやる。普段あまり食べ物に執着しないエンジュがこの時ばかりは五分近くかけて真剣に皿を舐める。バスルームから出てきたジェイちゃんがそばを通りかかると低い声でグルルル、と唸ってジェイちゃんを威嚇し、流石に私に叱られる。

「いるか! そんなモン!」とジェイちゃん。

 グルル、と唸りながら疑り深い眼でジェイちゃんを睨むエンジュ。

「ま、つまりエンちゃんの方がジェイちゃんよりジャパニーズだったって事だね。それにしても君もホントにエンジュに勝てる要素がないねぇ」

「……腐ったモノを喜んで食べてるイズミとエンジュより絶対に僕の方が生き物として正しいはずだ」


 後日、ジェイちゃんは梅干もダメである事が発覚。

 彼は自分の胃袋を「九十九パーセント・ジャパニーズ」と呼ぶようになった。

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