ヤモリの子守唄

 リ、リ、リ、と高く澄んだ鳴き声がする。


 風呂場の窓ガラスにぺたりと張り付いた愛らしい影に頬を緩める。鈴虫よりも蟋蟀よりも、もっとずっと綺麗に響く声。イイですねぇ。これぞ日本の夏の風物詩……とか思うのは私だけかもしれないが。何故ヒトは古来より秋虫の鳴声ばかりを愛でるのか。別にいいんですけどね、でも虫なんかよりもっといい声で鳴くモノがいるでしょう。


 そう、ヤモリくんだ。


 庭を走り回っているスラリとしたトカゲくん達に比べてやや頭デッカチで、全体的にずんぐりと丸みを帯びた躰。大きな目と愛嬌のある口許。夜に窓ガラスにぺたりと張り付いた半分透けたお腹とよく発達した5本の指。そして何より、あのぷっくりと丸く膨らんだ指先は萌え死ぬほど可愛い。トカゲくんほど素早くないのもイイ。(捕まえやすいからね。)

 私は爬虫類の中ではダントツにヤモリくんを愛している。


 ヤモリくんを見ると捕まえたくてウズウズして息が荒くなってしまうのだが、しかしグッと堪える。私は野生のヤモリくん達にだけは余程の事が無い限り手を出さない。

 ……やや後ろ暗い過去の事件の所為だ。


 あれは私が小学六年生の時のこと。

「イズ〜、ちょっと来てごらん。カワイイのいるよー」

 母に呼ばれて台所に行くと、洗濯機の影に全長2.5センチ程の極小ヤモリが……! 私は即座に全身でダイブして一瞬にして極小ヤモリを捕らえた。

「ちょっとやめなさいっ、そんなの捕まえてどうするの!」

 野暮な質問だ。家の周りにヤモリは多いが、こんな小さい子は初めてだ。私に見つかったのが運の尽き。かくして不運なチビチビヤモリは私の子となった。


 その子は本当に小さくて、彼が食べることの出来るサイズの羽虫を潰さずに生きたまま捕まえるのは余りに難しかった。蟻とかでも良かったのかもしれないが、しかし我が庭の黒アリ達はかなりデカく、ヤモちゃんの柔らかな舌に噛みついて怪我でもさせられそうで何となく嫌だった。

 羽虫捕獲に四苦八苦していた私は、遂に庭に住む蜘蛛達に目を付けた。蜘蛛も可愛がっている私だが、背に腹は代えられぬ。デカイのはヤモリくんには無理だけど小さい蜘蛛ならサイズ的にもいいし、毒や危険もないし、そもそも捕まえるのが簡単だ。よし! これで行こう。

 幸い蜘蛛はヤモリくんのお気に召した。脚の長い蜘蛛をあげると、ヤモリくんはまず胴体に喰いつく。そして口から四方八方にバラバラに飛び出した蜘蛛の脚をフンッ、フンッと地面に打ちつけ、口の正面に束にして真っ直ぐに揃え、ゴクッゴクッと3度ほどに分けて飲み込んでいく。超面白い。

 夕方のお食事タイムに私が蜘蛛を持って来ると、ヤモリくんは即座に私の指先から蜘蛛を奪うようになった。余りに素早く飛びついてくるので、時々蜘蛛を離すタイミングが合わず、脚が一本もげる。ヤモリくんは取れた脚も拾って食べていた。蜘蛛一匹で小柄なヤモリくんの腹はパンパンだったが、でもまだお腹が空いているのかも、と心配して蜘蛛狩りに精を出す私。ジャストサイズな庭の蜘蛛を取り尽くし、公園やご近所さんの庭にまで出張する始末。

 たまには外の空気も吸いたいだろうと思い、夕方の犬の散歩には必ずお供させた。そして隣近所のおばさん達に、「みてみて〜、可愛いでしょ〜♡」と胸ポケットの中のヤモリくんを見せてまわった。ヤモリくんにとってもおばさん達にとっても迷惑この上ない。

「あの子やっぱり変わってるわね……」と噂になったのは言うまでもない。それにしても何故かヤモリくんは決してポケットから出ようとはせず、一時間の散歩中、いつも大人しくポケットの奥にじっとうずくまっていた。


 運動不足になるといけないので、夜になるとよく巣箱から出してやった。私の腕から指先までよちよちと登り、一番上まで行くとしばらくじっと考え、立てた膝に向かってぴょんっと跳ぶ。そして膝の上まで登ると再びじっと考え、やがて意を決したように隣の膝へぴょんっ。 全長2.5センチの癖に、ジャンプ力は三十センチ近くあった。


 毎日夢中になってヤモリくんと遊んで一ヶ月ほど経ったある日のこと。

 絨毯に寝転がって私とヤモリくんは日向ぼっこしていた。逃げる気配を一度も見せたことのないヤモリくんに油断していたのだろう。ケージの蓋を開けたまま、ついウトウトとまどろみ……。ハッと目覚めた時には既にヤモリくんの姿は無かった。


 ぎゃーっと叫んで大慌てで窓辺やテーブルやピアノの下を探したが、少なくとも三十分以上前に逃げた全長2.5センチのヤモリを見つける事など百パーセント不可能に近い。そう、普通なら見つけられる筈など無かったのだ。しかしですな、私は時々自分でも不思議なくらい妙な勘が働くことがありまして。

「ヤモちゃんがいなくなったーーーっ」と喚きながら台所に走りこみかけて、私はハッと出窓を見た。出窓の下の壁は六十センチほど凹んだ造りになっていて、その窪みにはヒーターが置かれている。上手く説明出来ないのだが、何かピーンと来るものがあって、私は不意にしゃがんで出窓の下のヒーターの後ろを覗き込んだ。ヒーターと壁の隙間は私の腕がようやく入るくらいのスペースしかなく、その暗い隙間の突き当たりにコード等を通す為の直径三センチ位の穴があった。

 私がヒーターの後ろを覗き込んだ丁度その時。我が愛しのチビヤモリくんが今まさにその穴を通り抜け、壁の後ろに消えようとしていた。


 いかすべきか、いかさざるべきか。


 1.5秒程ハムレット並みに苦悩する私。その1.5秒が致命的だった。

「やっぱイカナイデ!!!」

 ヤモリくんの全身が穴の向こう側に消える寸前、私は最後にちょろりんと出ていた尻尾の先を思わず指で押さえてしまった。

「イヤーーーッ」と指先でヤモリくんが逃げようと尻尾を引っ張る感触がして、私は反射的に指先に力を入れ、次の瞬間ぷちり。ハッと我に返って慌てて指を離すと、そこには四ミリ程の尻尾の切れ端が……。


 ヤモリくんは行ってしまった。


 ああ、私はなんてヒドイことをしてしまったんだろう。

 どうせ行くなら、綺麗な体で行かせてあげたかった。ヤモリの尻尾は再生するが、しかし完全に元の状態に戻るわけではないのだ。私の我儘のせいで、あの若さでカタワ(?)になってしまったヤモリくんの将来を思うと非常に心苦しい。微妙に先っちょだけ色の違う尻尾のせいで仲間からバカにされたり、お嫁さんが見つからなかったりしたらどうしよう……。


 深い後悔と愁いの溜息と共に、後に残されたヤモリくんの尻尾を見つめた。


 壁の穴の縁に張り付いたまま、ピクピクと十分近く動き続ける尻尾の切れ端は実に不気味だった。

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