ゾウアザラシのセレナーデ

 ブロロロ、ブロロロ、グルッ、グルッ、ゴワッ。


 冷たい潮風にゾウアザラシのセレナーデを聞くと、春の到来を感じる。


 だらりと象のように垂れ下がった長い鼻を駆使して低い唸り声を風に響かせ、巨大な雄がテリトリー宣言する。全長五〜六メートル、推定体重三トン、実に立派な雄だ。ビーチをみっしりと埋める八十頭近いメスは、全て彼のモノなのだ。


 ここは海岸沿いの州立公園。ゾウアザラシの繁殖地として有名だ。

 十二月から三月の初めにかけて、太平洋の沖合から続々とゾウアザラシ達が集まってくる。ゾウアザラシの妊娠期間は七ヶ月。早春にビーチで子供を産み、四週間飲まず食わずで授乳する。ゾウアザラシのミルクは脂質55%前後、牛乳は3〜3.5%程だから、溶かしたバターを飲んでいるようなものだ。想像しただけで、オエッとなりますな。しかしお陰でゾウアザラシの仔はたった四週間で体重が三十キロから百五十キロにもなる。

 子供に水気も油気も吸い尽くされ、しなしなに萎びたゾウアザラシ母さんは、彼女が授乳を終えるのを待ち構えていた雄と交尾するとひとりサッサと深海へ帰っていく。因みにゾウアザラシの受精卵は三〜四ヶ月ほど子宮に着床しない。雌が数千キロを旅して餌の豊富な深海に帰ってきた頃にようやく着床するのだ。萎び切った母さんには卵を育てるだけの養分が残ってないからね、自然の仕組みってスゴイですな。


 とまぁ、色々と薀蓄を傾けてみましたが、全て州立公園のレンジャーのおじさんの受け売りだ。このおじさん、普通の仕事を定年でリタイアしてからレンジャーになったそうで、もう六十はとうに越えていると思われるのだが、やや変わり者で、そしてとにかくメッチャ元気なのだ。顔見知りの私が来ると何やらウキウキとした表情で、他のレンジャーさんなら絶対に入らないであろう繁殖地の近くまで連れて行ってくれる。

「久し振りだね! 今年は凄い大きい奴がいるよ! ちゃんといい靴履いてきた?」

「うん、モチロン、ばっちし」

 ジャージの裾を捲って浜辺用の履き慣れたランニングシューズをおじさんに見せる。よしよし、と満足気に頷くおじさん。

「すみませ〜ん、私達も一緒にお願いしていいですか?」と中年の夫婦と若い女の子がおじさんに声をかける。繁殖地のすぐ近くまで行くにはレンジャーさんの案内が必要なのだ。

「……あんたら、走れる?」

 やや中年太り気味の夫婦の突き出た腹をジッと見つめるおじさん。

「百メートル全力疾走のタイムどれくらい?」

「え? え?」と驚く夫婦。そりゃそうだろう。ゾウアザラシの繁殖を見物に来て、イキナリ百メートル走のタイムを聞かれるなどと想像出来る人間は少ない。

「僕は若い雄の群れの真横を通って繁殖地のすぐ近くまで行くからね、いざという時に走れないなら、案内は他のレンジャーに頼んでくれ。それから君は……」

 若い女の子の足元をジロリと睨むおじさん。

「そんなゴム草履なんかじゃダメだよ。途中の岩場で怪我するかもしれないからね」と素っ気無い。

「えええ〜」と残念そうな女の子。少し可哀相だが、私も取り成してはあげない。だってこのおじさん、本当にかなりヤバイところ通っていくんだもん。


 日当たりの良い砂浜では、数百頭のゾウアザラシが日向ぼっこしている。その殆どは子連れの雌だ。そして四十頭から百頭程の雌の群れの中心で辺りを睥睨しているのがハーレムの主。彼はハーレムの雌を独占し、春の終わりまでに全員と交尾する。

 ハーレムの集うビーチから少し離れた砂浜の岩陰では、数頭の若い雄がゴロゴロしている。若く、体も小さく、テリトリーを守ってハーレムを率いる程の度量に欠けるオトコ達。しかし小さいと言っても1.5トン前後はある。あんなのに襲われたらヒトなど一瞬にしてノシイカだ。そしてレンジャーおじさんは、この若い雄たちのド真ん中、距離にして七〜八メートルの所をスタスタと歩いて行くのだ。

「万が一、僕が走れーって言ったら、とにかく走って逃げるんだよ?」

「うんうん、わかってるよー」


 黒いギョロ目だけを動かし、私達をじっと見送るゾウアザラシ達。彼等の気に障らないよう、そしていつ勃発するか分からない彼等の争いに巻き込まれないよう、静かに注意深く砂浜を歩く。

「ゾウアザラシは体が大きすぎて、陸上では素早く動けない」とかよく聞くが、それは水の中に比べての話だ。陸上でも五十メートルくらいなら成人の全力疾走くらいのスピードで走れる。但し五十メートル程でバテて止まるので、六十メートル全力疾走出来るヒトなら多少近付いても大丈夫……らしいが、私は幸い彼等と追いかけっこをした経験は無いので、本当のところはよく分からない。


 ハーレムを持たないオトコ達は、体温が上がり過ぎるのを防ぐ為にそこかしこの水溜りに体を沈め、欠伸などしながら時々首を伸ばしてハーレムの美女達をチラ見している。

「あ〜、あの子可愛いなぁ。ちぇっ、それにしてもあのデカイ雄、あ〜んなに大勢の女の子を独り占めしやがって、ヤな奴だよな。あんなバカデカイ奴と戦うのはイヤだけど、でもアイツが余所見している隙にあわよくば……」とか思っているに違いない。

 しかし大抵は思っているだけで行動には移さず、週末のお父さん達の如く日がな一日ごろごろしている……と思ったら、密やかに行動に出る間男二頭発見。

 ハーレムから離れたところから海に入り、静かに泳いでハーレムに近付く。そして主の目の届かない砂山の陰から浜に上がり、端にいる雌にそっと忍び寄る。

「おぉっ、遂に念願達成か……」とドキドキワクワクしながら見守る私。しかし残念。主が不埒な侵入者共に気づいた。


 ゴウッゴウッゴウッ、と喚き散らしながら間男共に襲いかかる主。一目散に逃げる間男共。ちょっとくらい戦って美女達にイイところをみせよう、などという気概ゼロ。この辺が間男の間男たる所以であろう。


 ブロロロ、ブロロロ、ゴワッ、ゴワッ、ゴワッ、ブオォォォ。


 ライバルを追い払った主が鼻を鳴らし得意気に胸を張る。雄の鼻は長ければ長いほど低くて良い音が出るらしい。良い音、と言っても、私には田舎のトモユキ伯父の朝うがいの音にしか聞こえないのだが、しかしゾウアザラシの雌にとっては非常に魅力的な愛のセレナーデなのだ。そしてライバル達は音の響き具合や鼻の長さで相手の力量を見定め、無理そうな相手には無駄な手出しはしない。


 ゾウアザラシくんのハーレムを狙うライバルは二通りいる。ひとつは先程の雄のようにハーレムの周りでそっとチャンスを窺い、主が見ていない隙に雌にちょっかいを出す間男タイプ。

 そしてもうひとつはハーレムの主に真っ向から闘いを挑む猪突猛進型の荒くれ者。腕に自信のあるタイプだ。万が一このタイプとの闘いに負ければ、ゾウアザラシくんはハーレムの全ての雌を失う。ハーレムを賭け、二頭の巨大なオトコ達は胸を叩きつけ、巨大な牙で相手を切り裂き、血みどろになって命懸けの闘いを繰り広げる。まぁ大体十五分くらいで疲れて辞めるらしいが、しかし近くでぼやぼやしていると巻き込まれて圧死なんて事になるので、闘いが始まると周りの雌や赤ちゃんアザラシ達は皆必死の形相で逃げる。

 ハーレム持ちであろうと独り者であろうと、成熟した雄は皆傷だらけだ。雄の首回りや胸は特に厚い皮脂と硬い皮で覆われているのだが、百戦錬磨の雄の首は皮膚がケロイド状に固まって、鎧のように強固になる。


 ところで、ゾウアザラシを見る度に不思議に思うのだが、あの長〜い鼻って、食事の邪魔にならないのかね? だって口を開けて上を向くと、丁度喉に詰まるくらいの微妙な長さなのだ。ゾウの鼻と異なり、自分の意思で動かせるわけではなく、びろーんとしたモノがぶ〜らぶら。そもそも闘いの時だって、牙の真ん前に鼻がぶら下がってて、相手を噛むよりも先に自分の鼻を噛んでいる気がする。いやホント、機会があったら是非ゾウアザラシくん達の戦闘ビデオを見て頂きたい。あいつら絶対自己ダメージ率高いから。


「こいつめ! 俺の女にちょっかいを出すとはけしからん! 噛んでやる! ガブッ! あっ! イタタタタ、お〜の〜れ〜、よくも俺様の鼻に〜〜」といった怒りと負のスパイラルを想像してしまうのは、私だけでは無い筈だ。

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