合鴨の思い出

「おう、イズミ、合鴨の子持って来たったで」


 夏の盛り。例年通り田舎の祖母の家で自然を満喫していた私の元へ、シゲキおじちゃんがコウノトリのように幸せを運んできた。

 シゲキおじちゃんは我が師匠カズ兄ちゃんのお父さん。私の動物好きを知っていて、昔から色々と面白いモノを提供してくれるのだ。


 シゲキおじちゃんが抱えた大きめのダンボール箱の中で、ピーピーと母性本能をくすぐる声がする。ぎゃーっと大喜びでダンボール箱を受け取った私。何やら予想外にズシリと持ち重りのする箱に、もしやこれは十羽くらい入ってるのでは……と期待に胸を膨らませて箱を開けた。


 中には普通の鴨くらいの大きさの白いアヒル風なモノが入っていた。モチロン一羽だけ。


「イズミのお母さんが早う取りにこんさかい、こないに大きくなったんや。先々週くらいはごっつう可愛かったんやで」

 まぁそりゃそうでしょうなぁ。

 鴨サイズのアヒルが、私の顔を見上げてピーピーと鳴いた。

「でも鳴き声だけはまだ可愛いやろ?」

 ハイ、確かに。


 子鴨十羽分くらいの重さのある合鴨を十九郎ジューキューローと名付け、有難く頂戴した。十九郎という名にはあまり意味はない。子鴨十羽の十郎ではなんとなく口当たりが悪かったので、その頃イトコから借りて読んでいた漫画の登場人物の名を拝借しただけだ。

 合鴨にも色々と種類があるが、我が十九郎くんは真っ白で、見た目は真鴨よりもアヒルに近い。しかし体はアヒルよりだいぶ小さかった。

「シゲキちゃんも余計なモノ持って来よりよ」とぶつぶつ言うおばあちゃん。

「まぁもう持ってきたもんはしょうないっちゃ」と諦め顏の我が母。どうやら彼女らは、合鴨の子をイズミにやるから取りにこいというシゲキおじちゃんの素晴らしいオファーを私に秘し、共謀して素知らぬふりを決め込むつもりだったらしい。全く、油断も隙もあったもんじゃない。


 多少なりとも生き物に興味のあるヒトならば、一度は鴨やアヒルの子の刷り込みに憧れるのではないだろうか。生まれたてのふわふわの黄色や茶縞のコガモ達がピーピーと自分の後を必死になって追ってくる……。なんてファンタジーな世界。無論私もめっちゃ憧れている。

 しかしそんな夢を我が十九郎くんにみるほど私もアホではない。十九郎くんは生まれたてどころか、声色以外はどう見てもほぼ大人だった。

 しかしその程度でへこたれる私ではない。刷り込みナシでも懐かせてみせよう。


 鯉の池のある中庭に放たれた十九郎くんは、ピーピーと甲高い声を上げて私から逃げ回った。ようやく捕まえた十九郎くんを膝に抱き、池のそばの石に腰掛ける。優しく話しかけながら、嘴の下や頬、首筋などをそっと指先で撫でてやる。十九郎はすぐに大人しくなり、数分もしないうちに気持ち良さげにウトウトし始めた。何故か昔から私は動物を眠らせるのが得意なのだ。

 膝で船を漕ぐコガモ(?)をよくよく見てみれば、まだ翼の羽は殆ど生え揃っておらず、ぽわぽわした白い産毛で覆われていた。なんだ、まだまだ子供じゃん。

「見て見て、超可愛い〜♡」とぽわぽわの両翼を見せると、我が母は、「げ、なにその手羽先」と言った。

 無礼な母の声が聞こえたのか、ふと目を開けた十九郎がもぞもぞと尻を動かした。逃げようとしているのかと思い、ヒョイっとふわふわのお尻の下に手を出した瞬間、びしゃっと生温かいモノが大量に手にかかった。

 慌てて十九郎を放し、従姉妹を呼んでテッシュとゴミ箱を持って来てもらう。手から溢れたそれは足やゴム草履にもかかった。仕方無い。面倒臭いので、鯉の池で適当に手足を洗う。祖母が見たら池が汚れると騒ぎそうだが、まぁ気にしない。そしてまたピーピーと逃げ回る十九郎くんを捕まえて、リラックスタイムを無理強いする。そして十分後、もぞもぞと動いた十九郎くんが再びブリッ。ぎゃっ、と彼を放し、足を拭き、彼を捕まえ……。その日は朝十時頃から夕方までずっとこれを繰り返した。蚊に噛まれて足がボコボコになった。


 翌日になると、十九郎くんはあまり私から逃げなくなった。追いかければ、ピーピー言いながら二〜三歩前に進む程度で、本気では逃げない。試しに伯父が捕まえようとしたところ、ピーーーーーッと沸騰したヤカンのような悲鳴を上げ、手羽先を振り回しながらダッシュで逃げた。


 膝に抱き、畑のレタスや小松菜に糠を混ぜたものを手で食べさせ、毛繕いしてやりながら、ふたりでひなたぼっこ。そして時々ブリッ。

 タイマーで計ってみたところ、十九郎くんはきっかり十分毎にフンをした。しかし彼は非常に賢く、なるべく遠くまでお尻を突き出して、私の足にかからないようにフンをするようになった。


 毎日五〜六時間を私の膝の上で過ごす十九郎くん。私がいない時はやや不服気にピーピーと文句を言いつつ庭で虫やミミズを探している。私が餌を作っていると物陰からそっと首を伸ばして覗き、私が裏の畑に出て行くと、首を伸ばしたり縮めたりしながら引戸の前をうろつき外を窺う。そしてオタマジャクシやインコの世話をしている私の足元で、何やら安心したようにピーピー言いながら虫を探す。

 十九郎の一番のチャームポイントは、私がいない時に他の人の姿を見るとダッシュで逃げることだろう。刷り込みではないが、しかし彼は私、私だけに懐いた。ムフフ。わかる人にはわかると思うが、「自分だけ」に懐く動物ほど可愛いものはない。


 ピーピーピーピーと甲高い声で引っ切り無しに鳴く彼を、祖母はピーコと呼んだ。しかし一週間ほどすると、ピーピーの間に何やら雑音が入るようになった。

 ピーピーピーピーグワッ。 変声期なのだろうか、時々蛙が潰れたような声を出す。


 ピーピーピーグワッ。

 ピーピーピーグエッ。

 ピーピーグワッ、ピー、グエッ、グエッ。


 グワッの回数が多くなると、祖母は彼をガーコと呼ぶようになった。


 失礼なヒト達だ。彼はピーコでもガーコでもない。十九郎というちゃんとした(?)名があるのだ。私以外誰も呼んでくれないが。しかし十九郎も自分の名は十九郎だと思っている。その証拠に、彼は他のヒトがピーコだのガーコだのと呼んでも決して返事をしないが、私がジューキューローと呼ぶとちゃんと「ピーグワッグワッ」と返事をする。賢いのだ。


 そんなある日のこと。

 夕方、早めのお風呂から出て来ると、中庭で十九郎がガーガーガーとなにやら騒いでいる。十九郎は歩きながらよく独り言を言うが、そういう時の鳴き声はもっとクワックワッ、と軽やかだ。突然ガーガー音が大きくなり、バタバタと激しく羽ばたく音がした。嫌な予感に慌てて居間に駆け込むと、中庭で伯父が鯉をすくう網で捕らえた十九郎を、祖母が両手で掴み出そうとしていた。


「なっ、何やってんのっ?!」

「池がフンで汚のうなるで、裏の田んぼに出すんや」と言うと、祖母がイキナリ十九郎の首を掴んで持ち上げた。キョエーーーーッと凄まじい声を上げる十九郎と私。

「母さん、首なんか持ったらあかんっ」と慌てる伯父。

「そないなこと言うたって、ここが一番持ちやすいが」

 平然と言い放つ祖母。

 裸足のまま素っ飛んでいき、祖母から十九郎を奪い返した。私の腕の中でぜえぜえと荒い息をつく十九郎。危なかった。あと一歩遅かったら殺されるところだった。十九郎も余程恐ろしかったのか、しばらく私の脇に首を突っ込んで身動きひとつしなかった。モチロン私は殺鳥未遂の祖母に怒り狂い、今後ナンピトたりとも十九郎に触れるべからずというオフレをだした。


 しかし翌日から十九郎は裏の田んぼに出されることになった。


 囲いなど何もない田んぼに出された十九郎は、しばらく不安気に私のそばをうろついていたが、やがて稲の根元をついばみ始めた。しかし田んぼの中を半分程ほど進み、私が見えなくなると慌てて戻ってくる。田んぼの脇に座っている私の姿を確認すると、また安心してクワックワッと呟きながら田んぼの中を進む。

 それを何度か繰り返していた十九郎の目の前に、ぴょんっと雨蛙が飛び出してきた。目にも留まらぬ素早さで十九郎が雨蛙を飲み込んだ。よほど美味しかったのだろうか、それまで下ばかり見ていた十九郎が蛙を探して青々とした稲の葉の隙間を覗いている。

 ふと思い立ち、畑に行って雨蛙を一匹捕まえてきた。

「十九郎!」と声をかけ、振り向いた十九郎に雨蛙を投げてやった。

 お見事! 十九郎は実に器用に雨蛙を空中キャッチしてみせた。再び畑で蛙を捕まえて戻ってくると、十九郎はその黒くつぶらな瞳を期待に輝かせて待ち構えている。そこらの犬より上手にカエルをキャッチする十九郎が面白くて、その後更に五匹ほどやってしまったが、ぐっと堪えてそれでお終いにした。私は雨蛙も好きなのだ。十九郎が自分で捕まえて食べる分には構わないが、私が捕まえるのはやや気が咎める。

「おーしーまい」と言うと、十九郎は少しの間何やら考えていたが、やがて僅かに不服気にクワックワッと呟き、諦めて田んぼの泥の中を漁り始めた。


 十九郎はものすごい働き者だった。クワックワックワッと独り言を呟きつつ、稲の間を端から端まで一列づつ歩き、虫を探し、雑草を食べる。決して稲は傷つけず、そして絶対に一列も飛ばしたりしない。そしてひとつの田んぼが終わると、ぴょんっと飛び出し、クワックワッと呟きつつ畦道を歩いて隣の田んぼに入り、またひと畝づつ丁寧に掃除していく。

 それを繰り返すうちに、いつの間にかどんどん遠くまで行ってしまう。しかし私が糠を混ぜた餌を持って、「ジューキューロージューキューロー」と何度か呼ぶと、クワックワッと返事をして緑の稲の間から顔を出し、皿を見ると慌てて田んぼから飛び出し、尻をふりふり駆けつける。そして私の膝に座り、手から餌を食べ、涼しい木陰でふたりでのんびりする。


 夜の田んぼは真っ暗だ。

 私と従姉妹は、足元も見えないような夜の畦道を手を繋いで散歩するのが好きだった。

「イズちゃんのアヒルってどこにおるん?」と従姉妹に聞かれ、暗い田んぼに向かって何度か名前を呼ぶと、少し離れた所からクワッと微かな返事が聞こえた。

「あっ、今返事した!」

「ほんま?」

「うん、ほら」

 ジューキューロー、と呼ぶと、目を覚ましたらしい十九郎が、先程よりはっきりと、クワックワッと返事をした。

「ジューキューロー」

「クワッ」

「ジューキューロー、こっちおいで」

「クワックワッ」

 伸びた稲がゆらゆらと揺れて、夜闇にぼんやりと白い十九郎の顔が覗いた。

「よう慣れとるなぁ」

 少し呆れたように従姉妹が笑った。

「ジューキューロー」と試しに従姉妹が呼んでも、十九郎はむっつり黙って返事をしなかった。



「……旨そうやのう」

 通りがかりに私の膝の十九郎を見て、トモユキ伯父がぼそりと呟いた。私にジロリと睨まれ、ウヒヒ、と笑いながら去ってゆく。

 野生児のトモユキ君は地蜂の子を生きたままナマで食べる。私にも時々勧めてくるが、どう見ても便所の蛆虫にしか見えないそれを口に入れる気は流石にしない。せめてフライパンで炒って欲しい。

「アホウ、そんなんしよったら甘さがのうなるで。蜂蜜しか入っとらんから平気や」

 いやいや、さすがに蜂蜜だけってことはないと思うよ? まだそれ動いてるし。

 無言で地蜂の子を釣針につけて十九郎のタンパク源を釣り上げる私の横で、モゾモゾと動くソレを食べる伯父。このヒトは美味しければイトミミズでも食べそうだ。子供の頃は雀を空気銃で撃ってオヤツにしたそうだ。(我が母もお相伴にあずかったそうな。)とにかく何でも食べる。油断ならない人物なのだ。


 夏はあっという間に過ぎる。

 我が桃源郷を出て狭苦しい現実に帰る前日、私は従姉妹に十九郎をよろしくと頼んだ。餌などは畑のモノを祖母が適当に与えてくれるだろうが、問題はトモユキ君なのだ。

「くれぐれもおじちゃんがジューキューローを食べたりしないように、しっかり見張っといてねっ」

 そんなもん誰も食べたりせえへんわ、とか呑気げな我が母。しかし流石に従姉妹は自分の父親をよく知っている。ややいい加減なところもある彼女だが、しかしこの時ばかりは私の頼みに真剣に頷いてくれた。

「大丈夫、ちゃんと見張っとくで。イズちゃんのアヒル食べたら呪われるでって言っとくわ」


 そして私は田舎を後にした。最後の日の朝、田んぼで十九郎に別れを告げたはずなのだが、何故かその時のことだけがすっぽりと記憶から抜け落ち、どうしても思い出せない。


「あいつ、よう肥えて旨そうになったのう」

「お父さんアカン! あんなん食べたら一生イズちゃんに恨まれるで!」

 慌てて止めるイトコ達。私が去った家では、そんな会話が毎晩のように繰り返されたそうな。


 伯父に頼んで、冬が来る前に旧犬小屋か鶏小屋を改築して十九郎の家にして貰おうと思っていた矢先、十九郎がいなくなったと祖母が電話をかけてきた。

「イタチにとられたか、まぁ譲って欲しいって言うヒトもおったし、近所のヒトにとられたんかもしれんなぁ。」

 イタチはわかるが、近所のヒトってのは許せない。譲って欲しいと言うのは、つまり潰して食う気なのだ。あんな狭い田舎だ、私が夏中ずーっと十九郎を抱きしめていたことなど皆知っているだろうに、なんたること。無農薬農法に使われる合鴨は秋が来れば鍋になる。しかし十九郎は無農薬農法のために飼われていたわけではない。彼は私の可愛いペットであり、心を通わせた友だったのだ。

 イタチか盗人かは判らぬが、十九郎には可哀相なことをした。やっぱり家に連れて帰って来れば良かった。合鴨なんて大人しいものだ。雄鶏のように朝の三時に夜明けを告げるわけでもないから、別にウチの庭で飼っていても問題なかっただろうに。

「アヒルを飼うなんて無理に決まってるでしょ〜」とか母に言われ、その時は不満ながらも一応納得したが、今なら分かる。全然普通に飼えたはずだ。


 許せん我が母!

 許せんイナカの近所のヒト!

 イタチの可能性を考えなかった私も馬鹿だったが、しかし知っていながらそれを教えてくれなかった祖母も許せん!


 今でも十九郎の事を想うと、ハラワタが煮えくり返り、夜中に枕を抱えてキーーッとなる。二十年近く経った今でも、十九郎に関してだけは、「仕方なかったよね」とか「そんな巡り合わせだったんだよね」とか思えないのだ。そんな知った風なキレイゴトで済まして堪るか!


「……何やってんの?」

 ひとり枕を抱えてキーキー歯軋りしていると、ジェイちゃんが部屋を覗き込んだ。

「あのねっ、言っとくけどねっ、将来絶対に合鴨飼うからねっ! 孵化器買ってきて、合鴨の卵を孵化させて、庭のプールで飼うんだからねっ、わかったっ?!」

「ふ〜ん、別にいいけど。でも僕、鴨肉ってあんまり好きじゃないんだよね。どうせなら鶏にしない?」

 ジェイちゃんに枕を投げつけ部屋から追い出し、私はひとり夢想に耽る。

 合鴨の卵が孵ったら、順番にイチロー、ジロー、サブローと名前をつけてゆくのだ。そしたらいつか、ジューキューローまでいくかしら。


 しかし私は知っている。

 私はきっと、ジューハチローでやめるだろう。

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